文化大革命時代を乗り越えてきた友達が言うには、文革当時は、「上綱上線」(些細なことを大げさに原理原則問題として扱うこと)の方に傾きがちで、話はいつも他人の「意識問題」や「態度問題」、さらに厳重な「路線問題」(思想の方向性)までをも指摘するものばかりだったと聞いたことがあります。
日本に来てからは、ここはまず資本主義国家なので、そのような「路線問題」はすっかり消えてなくなりました。 しかし資本主義であっても、文革時代の中国と変わりなく、常に「態度問題」が指摘される問題の一つとなっているようです。 なぜならば、人の態度はすぐ顔に表れてしまうものだからです。たとえば、工場に入ったばかりの日本人新入社員は、毎日ごく簡単な仕事をするときでも、顔の表情は常にかしこまっているものです。 彼らは、真面目に仕事をするということは、いつも表情を硬くしていなければならないことだと考えているようです。 それは僕がある工場でアルバイトをしていたときのことでした。日本人社員が、四つん這いになって生産ラインの下を通る姿を見るたびに、思わず「人間用のドアは固く鍵を閉められ、犬用の洞窟は大きく開いている」という詩句を思い出してしまったものです。 僕はいつもこう思います。人間は仕事のための機械であるべきではなく、人間は自分の生活を良くするために仕事をするべきなのです。ですから、仕事環境などは、すべて人間を中心にして配置すべきだということです。幸いなことに、そう思っている人は、僕一人ではありませんでした。学生の中には僕に同感する連中もいました。 ですから、同じバイト仲間の何人かの学生は、仕事の質と量に影響が出ない程度に、仕事中の疲労感を解消するため、お互いに少し笑い話をしたりしていました。でも、それが日本人社員の不満の種になったようです。
ある日、普段すごく「態度が真面目な」若い社員が、劉さんと喧嘩をしました。原因は、劉さんが仕事をしていたとき「不真面目なこと」をしていたからです。 この日、一緒に生産ラインで仕事をしていたのは、Kさんでした。彼の後に立っていた劉さんは、ふとKさんにちょっとイタズラをしたくなって、手元に置いてある雑巾を、彼の背中にかけたのです。Kさんはそれに気づくと、すぐに片手で雑巾をどこに投げようとたのですが、雑巾がパタッと地面に落ちてしまいました。 後ろの劉さんが、雑巾を拾おうとしたとたん、傍に立っていた日本人社員が突然、「早く雑巾を拾え!」と憎らしげな一言を投げ掛けたのです。 そんな態度に不満を感じた劉さんは、逆に両手を胸の前に組んで、社員に反抗する姿勢を取りました。小柄な劉さんに比べて、相手の日本人社員は背が高くて丈夫な人です。 二人が揉め出してまもなく、社員は劉さんを手で押しはじめたのです。 仕事現場は、機械の音がとても大きく、ずっと二人に背を向けて仕事をしていたKさんは、何か後ろがおかしいなと思って、ちらっと見ると、その社員と劉さんの「戦闘」は、もうすでに終結に近づいているところでした。 しかもちょうどそのとき、その社員が、劉さんが頭を下に向けている機を見計らって、劉さんに襲いかかろうとしていたところだったので、Kさんは「やばいっ!」と思って、慌ててその社員を劉さんの身から引き剥がしたのです。 Kさんは、その社員を抑えながら、「いくら怒っても手を出すな。われわれは打たれるためにここに来たんじゃない!」と叫んだのです。 Kさんは、体格の逞しい人で、声も大きく日本語も上手です。その若い社員は、Kさんとは相手にならないと分かっていたので、ただKさんに「奴が俺を打ったんだ、俺が打ったんじゃない!ボケ!」と、怒り出すしかできませんでした。 Kさんは、その話を信じませんでした。「あなたは彼より随分逞しく見えるし、しかもたった今、あなたが彼に襲いかかるのをこの目で見たのに、彼があなたを打ったなんて、よく言えるものだな!」。言い返す言葉もない若い社員は、ただひたすら「このボケ!」と罵るばかりでした。
そこに班長がやってきました。彼はちょうど今の次第を見て、Kさんと若い社員が喧嘩しているのだと勘違いしました。すると、班長は「またお前か。さあ、俺の言う事を聞いて、今日お前はとりあえず家に帰れ。喧嘩をやめろ。」とKさんに言ったのです。 「私は喧嘩してる方じゃなく、喧嘩を止めてる方です。」とKさんが懸命に説明したのに、班長は耳を傾けようともしませんでした。仕方なく、Kさんは突然大きな声で、「ちゃんと話を聞け!」と一喝しました。 すると班長はようやく「何~!俺に?」と不思議でたまらない顔で、Kさんを注目しはじめました。「そうです。もう一回言います。彼が他人と喧嘩していた。私とじゃない。はっきり聞こえましたか?」
今度こそ班長は、話が分かったようで、若い社員に話を聞くことにしたのです。その社員は、やっと口を挟むチャンスに恵まれ、班長に喧嘩の経緯を詳しく説明しました。しかも、途中、自分が被害者であることを証明するために、若い社員は背中のすり傷を班長に見せたのです。 Kさんは血が滲んだその擦り傷を見た瞬間、ふとニュースで人体被害を描写するのによく使われる言葉を思い出しました。「全治一週間の軽傷を負いました。」というものです。 その傷は、実に劉さんに地面に押さえつけられたとき、若い社員が自分で足掻いたため、擦った傷だったのです。 Kさんが後を振り向いたときは、ちょうど二人が地面から立ち上がって、劉さんが床に落ちていたメガネを拾う隙を見て、若い社員が劉さんに襲い掛かるところだったのです。結局、それはKさんに止められたのですが。それで若い社員はあのときずっとKさんに「ばかやろう」と叫んでいたわけです。 喧嘩はおしまいです。班長は課長に報告に行きました。仕事現場は「暴風雨前的平静」(嵐の前の静けさ)に戻ったのです。
しばらくたってから、班長が戻ってきました。社員とバイトは全員ただちに会議室に集まるように知らせにきたのです。「これはあなた達ための‘勉強会’なんだよ。」とKさんは、他のバイトに言いました。 突飛な会議なので、議題はまだ混乱しているようです。まず、課長の訓話でした。課長の態度はとても和やかで、当事者にお互い事情を説明するよう勧めるだけでした。 次は、班長とあの若い社員の登場でした。二人は最後に、「雑巾は仕事用の道具です」とか「人の話を聞かないで雑巾を拾おうとしない」とか、また「バイト達は仕事するときよく冗談をいったりして、仕事態度が不真面目だ」などというふうに話を結びました。 途中で劉さんは、「私は雑巾を拾ったのに」と弁解したのですが、会場の人は彼の話を信じませんでした。 ただKさんは、こんな会議の本質を分かっていたようです。「雑巾を拾ったか否か」というのは、証拠のないことですから、事実を知る人は劉さんと若い社員二人だけです。ですから、いくら雑巾のことで弁解しても無駄なのです。 重要なのは、今回日本人社員が損害を被ったので、もし相手が「一週間の軽傷のため、療養が必要だ」というふうに、バイトの責任を追及したら、こちらは不利な立場に立たされてしまいます。 ですからKさんは、喧嘩の問題についてではなく、日本人社員のバイトへの態度を問題として取り上げたのです。 Kさんは若い社員に言いました。「もし、あなたの態度がもう少し優しかったら、劉さんは言われた通りにしたはずです。若い人は、みんな気が強いんだから、誰も言いなりにはなりたくないでしょ。」 Kさんはまた言いました。「本来みんな仕事仲間なんだから、平等な立場に立っているはずです。でも、われわれが外国人だということで、日本人に管理されるべきだと思う人がいるのです。」 「また、休憩の問題ですが、原則として2時間ごとに、15分ほどの休憩がありますが、今誰もわれわれの休憩問題を考慮していないです。昼間のパートの仕事は、夜より楽なのにちゃんと休憩を取っている。でも夜のバイトになると、われわれが疲れきっても休憩のために交替してくれる人はいません。3、4時間連続で仕事をするのは、私達にはよくあることです。誰も私達のことを考えてくれないから、仕方なく多少おしゃべりをしてストレス解消するんです。」 さすがKさんは、「上鋼上線」を経験した人です。議題を「人権」の高度にまで持ち上げたのです。バイト達はKさんにこう言われて、みんな次々と証拠を言い出したのです。
課長は、バイト達の話を聞いて、慌てて「工場は従業員をみんな平等に扱っている。バイト達を交替しないのは、本当に人手が足りないからだ。」というふうに説明したのです。 こうして、本来は喧嘩のことを追及したい班長も、課長に合わせるために、また人員調達が本当に困難だとか、社員達はバイトを仕事仲間だと思っている、といった話を言わざるを得なかったのです。 そんなとき、班長と同様に「悪役」のレッテルを貼られている副班長が、登場しました。彼は話題をもとの方向に戻そうとしたのです。 その日、バイトの一人が、かなり遅刻した上に、途中怠けるためにこっそり外へ出ようとしたところを、目をつけた副班長に止められたそうです。 副班長は言いました。「王さん、今日あなたは何時に来たのですか?その後、あなたはまた何をしたのですか?言ってて下さい。」と。 少し騒然としていた会場は、急に静かになりました。王さんは確かに怠け者だと他のバイトも認めていたので、誰も彼のために弁解しようとは思いませんでした。 しかし、課長はその静けさを読み間違ったようで、副班長の話を止めようとしたのです。課長のやり方に不満を感じた副班長は、みんなの前で課長と論争しはじめました。 でも、日本でも、「官大一級圧死人」(上司は部下より強気に出られる事の喩え)の社会なので、結局副班長が譲歩して終わりました。 副班長は怒りを抱いたまま、会場を後にしました。その日の会議の結果は、当事者双方が仲直りということで幕を閉じたのです。 一ヵ月後、夏休みに入りました。工場は、何人かのアルバイトを首をしたようです。首になった人の中には、劉さんと王さんがいました――。
|