私には、ある同僚がいました。彼は1966年に高校を卒業し、社会に出てから、造反(上の人間にたてつくこと)、挿隊(都市の知識青年が農村へ行き、人民公社の生産隊に入って働くこと)、大学入試、改革開放など様々なことを経験して、はや30年が経ちました。 面白いことに、彼は多くの災難に次々と見舞われても、変わらずに誠実で、わきまえのいい素朴な人間で、いつも楽観的にその運命に身を按じてきました。 特にお金の関わることになると、少しも余計なお金を取らないので、「老硬」(老硬とは、非常に頑固であるという意味、あるいは物事に固執するという意味です。)というあだ名が与えられました。「硬」というと、どれぐらい物事に固執すれば「硬」といえるのでしょうか。 昔の中国では、「硬」という言葉は「凍死しても風に向かったままで立つ、餓死しても腰を曲げないままでいる」という、死ぬまでその気概を変えようともしない好漢に対して用いていましたが、今は時代も変わったので、自分の原則を守り、それを一生貫くことのできる人のことを「硬」に当てはめるようになりました。
不惑の年を過ぎた老硬は、終電に間に合ったように人生にわずかに残されたチャンスをつかみ、日本に「洋挿隊」(外国に「挿隊」しに行くこと)しにきました。 日本に来てから最初の10ヶ月は、日本語も不自由で、友達もあまり出来ないし、バイトも出来ませんでした。 やっと友達の紹介で、ある工場でアルバイトをすることになりました。老硬はこの仕事を非常に大事にしていました。 彼はかつて農業の専門家であり、優秀な教師でもありましたが、その頃のように精を出して仕事をしていました。 しかし逆に彼のばか正直な性格が災いして、バイト中、いくつかの厄介事を招いたこともありました。その上何回も仕事を失う一歩手前のところまで至ったのです。
ある日、冷蔵庫から製品を運ぶときに、老硬と私は自ら進んで製品を運ぶことにしました。しかし凍った製品が崩れやすいということには思いも及びませんでした。 老硬はハンドリフトを十分上げてなかったので、運んでいる途中で地面の凹凸した部分に引っかかってつまずいてしまいました。それどころか、リフトの上に載せられた製品が全て老硬の体に覆い被さるように崩れていったのです。 そのとき老硬はリフトの前にいて、私はリフトの後ろを歩いていました。それを見た私はただ、老硬を助けなければという考えしか浮かびませんでした。幸いなことに、製品が軽いので、老硬は無事でした。 しかし製品は全部地面にばらばらと転がり、中にはつぶれてしまった製品も少なくありませんでした。私達は急いで製品を拾い始めました。 当時、老硬は工場に入って1ヶ月しか経っておらず、私もせいぜい何日かでした。二人とも新人なのに、こんな大きなミスを起こしてしまい、もう工場には居られなくなるだろうと思った私は、老硬と一緒に製品を拾いながら、いつ上司がやって来ることか、はらはらしていました。
私達が製品を拾っている最中、課長はやってきました。現場を見た課長は「もういいから。全部捨てて。」と一言。私達はきっと今回は叱られるだけでは済まないだろうという緊迫感に襲われていました。 課長は改めて生産の段取りをし、事故の原因を社員に聞いてから去っていきました。どうなるのだろう?と思った私達二人は、気が気でないまま、それでもごみを片付けはじめました。 ごみを片付け終わった後、班長がやってきました。私たち二人に始末書を書くように言いつけに来たのです。ほっとしたのも束の間、それを聞いた私達の緊張はまた高まりました。 老硬と私は共にかつての十年文革命を経験した人間で、そのときはほんの少しの間違いも許されませんでした。小さくて取るには足らない間違いでも、何度も始末書を書かされたものです。始末書は短くなければいけませんでした。しかも、一枚の始末書は何回もの検査を受けて、やっと通るものでした。 今回の日本式の始末書はどういうふうに書けばいいのか、私達にはさっぱりわかりませんでした。正直困りきったなと思いました。
すべての仕事が終わったとき、班長は紙を一枚持ってきました。 「あなた達は始末書を日本語で書けないだろうと思ったから、私が代わりに書いてしまった。もう一回別の紙に写して、自分の名前をサインしたらそれでいいです。」と言ったのです。 私達はその紙を見ました。紙の上にはたった一言でした――「運搬ミスで、製品を1パレット損ないました。これからは十分注意します。」と。 「日本式の始末書はこんな簡単なものか。班長は思いやりのある人だね。よかった、よかった!」と、私達はすっかり気を抜いてしまいました。 でもその月の給料が出るまで、その損失分が自分の給料から天引きされてしまうだろうかと、ずっと気になっていたものでした。
|