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強生の物語

作者:じゅん菜 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2004-7-9 10:45:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

2000年の夏、私は中国の西部に出張に行きました。スケジュールが厳しかったので、国に帰ったとはいえ親戚を訪ねる暇もありませんでした。
 それでもようやく東京に戻る日に、親戚の家の前を通りがかったとき、運転手さんに少しそこで待っていてくれるように頼んで、その家をノックしたのです。ドアはすぐに開かれ、みんなそこでずっと私のことを待っていたようでした。
 短い再会でしたが、あわただしく挨拶を交わしていると、その中に細い子供の声を耳にしました。目の前を見ると身長100cmくらいのきりっとした男の子が私の裾を揺らしながら、挨拶してくれたのです。「おばさん、こんにちは!」と。
 
 彼は私の返事を待たずに、そのまま私の裾を引っ張りながら、私を家の中に連れて行きました。彼はせかすように私をある大きな中国地図の前に連れて行きました。そして素早く椅子に上ると「おばさん、言って!」と言ったのです。戸惑った私をみて、彼のお母さんが説明してくれました。

 「生ちゃんは地図の上であなたが指差した都市を見つけてあげようとしてるのよ。」
 「あぁ、そう。じゃあ…。」男の子のかわいらしい顔を見ながら、私は試しに都市の名前を言い始めました。
 「天津。」
  彼は地図の上で自分の小さな指で素早く正確に「天津」という都市を指しました。
 「北京、上海、重慶、ラサ…。」
 次々といくつかの都市名を挙げましたが、その小さな指は少しの間違いもなく、名を挙げるごとにそれらの都市を正確に示してくれたのです。
 
 私は一目彼を見たとき、すぐに彼のことを思い出していたので、懐かしくこの子を抱き上げて頬っぺたに軽くキスをしました。 「さあ、いい子ね。おばさんは今日ちょっと忙しいから、また今度一緒に遊ぼうね。いい?」と、私は子供に言いました。
 彼はとても利口な子で頷きながら別のところへ遊びに行きました。家から帰るとき、その小さな姿がベランダに現れ「おばさん、また明日遊びにきてね!」という声が響いてきました。

 子供の名前は「強生」といいます。その名前を見ただけでも、周りの人たちが彼にどれほど大きく期待しているか分かるでしょう。確かにその子はとても生命力が強かったのです。
 彼は生まれたばかりのとき、体重が1キログラムもありませんでした。2歳になったとき、まだ言葉をしゃべらなかったので知恵遅れなのではないかと、大人たちはものすごく心配したものです。でもその後家族の努力によって、最初に一文字、また一文字、そして完全な文章まで、少しずつ少しずつ言葉を喋るようになっていったのです。
 3歳のときには身長も100センチくらいになりました。そんなことから、みんなはその子の生命力の強さを感じ取ったのです。

  強生のお父さんとお母さん
  強生のお父さんとお母さんは二人とも留学生でした。お母さんは日本に、お父さんはアメリカに留学していました。二人は共通の知人の紹介で知り合ったのです。
  ニ年ほどの遠距離恋愛をしてから、お父さんが博士を卒業してアメリカの某大学の講師になったその年に二人は結婚しました。
  強生のお父さんはアメリカから日本に飛んできて、駐日中国大使館から結婚届を申請して、また何人かの友達に招待状を出して、日本で簡単な結婚式を挙げました。やがて一つの小さい生命がお母さんの中に宿ったのです。

 強生のお母さんは妊娠して7ヶ月目に入ったある日、晩ご飯のあと急に気分が悪くなりました。大家のおばあさんは急いで彼女を病院に連れて行き、検査を受けさせました。
  検査の結果、強生のお母さんは妊娠高血圧症という非常に危険な病気にかかってしまったということが分かりました。この種の病気は、お母さんだけでなく赤ちゃんの命にも関わる病気です。
  お母さんの命を守るためには、妊娠を至急中止させなければなりません。つまりお母さんのお腹の中に、たった6ヶ月しかいない赤ちゃんを、強制的に出産させてしまうということです。
  たった6ヶ月しかお腹にいることができなかった赤ちゃんは、無事生まれても生きていけるかどうか誰にも分かりません。しかし母体の安全のためにはそうするしかなかったのです。
  医者達は緊急対策をとりました。そうして極めて小さな一つの生命が、十分に育たないままこの世に生まれてきてしまったのです。

  「体重はたった800グラム、この子は人生の初めての難関を乗り越えることが出来るのだろうか?」と、この小さな生命が誕生したその瞬間から、お母さんや大家のおばあさんや病院の看護婦さんたちは心配で緊張感が高まる一方でした。
  お母さんの主治医は東京で設備が一番整った児童病院に連絡を取りました。赤ちゃんは直ちにその病院に送られたのです。
  大家のおばあさんもすぐアメリカにいるお父さんに電話して、彼にこの喜ばしくもあり、まだ同時にとても心配なことを知らせたのです。

 こうした赤ちゃんの特別な状況から、担当医師は母乳で彼の免疫力を高めることにしましたが、強生のお母さんはまだ体が回復しておらず、自分のいる病院から赤ちゃんのいる病院まで行って母乳を与えることができませんでした。
 すると大家のおばあさんが、自ら進んで母乳を運ぶことを引き受けてくれたのです。彼女は毎日自分の仕事をするほかに、2回も強生のお母さんの病院にいって母乳を受取り、また強生の病院に送り届けてくれたのでした。
 大家のおばあさんは、強生の病院に来るたびに、窓ガラスの向こうの強生を見つめながら「強く生きてちょうだい!」といつも祈っていたそうです。
 「強生」という名前も大家のおばあさんが名付け親だそうです。感謝の気持ちで一杯の強生の両親にできることは、ただただうなずくことだけでした。
  大家のおばあさんは、母乳を運ぶことを引き受けてから大変忙しくなったそうです。そろそろ70歳を迎える大家のおばあさんが、毎日朝早くから夜遅くまでずっと休まずにあちこち行き来したのですから、さぞや大変だったことでしょう。

 20日余りが過ぎました。児童病院の看護婦さんが細心のケアをしてくれたおかげで、強生は無事に最初の難関をのりこえることができました。強生のかわいらしい顔に表情が現れるようになったのです。
 弱く小さいながらも強い小強生の一つ一つの動きと表情を見ていた大家のおばあさんは、自分の苦労が報われたと感激しきりだったそうです。

 強生のお母さんが退院しようとしたとき、強生のお父さんもはるばるアメリカからやってきました。母子ともに無事だったことを喜んだのも束の間、彼ら夫婦はまた頭の痛い事実に直面してしまいました。それは高額の医療費です。
  病院の勘定によりますと、強生のお母さんの入院は、総額50万円の医療費がかかるとのことでした。その上強生はまだ完全に危機を脱したとは言えないので、まだ2~3ヶ月くらい入院の必要があるのです。
  2人の医療費はあわせて900万円くらいになるということでした。さらに強生のお母さんは出産前まで所属していた会社のボスと話が決裂してしまい、ビザの更新もできなくなってしまったそうです。
  そういうわけで、お母さんの国民保険はすでに失効してしまっていたのです。もし医療費を全額支払うことになったら、全財産を売り払っても集められないというのが現状でした。
  強生のお父さんは仕事に就いたばかりで、しかもアメリカ式のライフスタイルなのでお金をためる習慣もなく、急に900万円と言われても彼にとってそれはどうやっても出せない莫大な金額でした。
  二人の貯金を全部合わせても全額の4分の1にしかならず、仕方なく強生のお母さんは友達に助けを求めにいったのです。しかし友達は貧しい留学生がほとんどなので、そんな大金を出せる人は一人もいませんでした。
  友達の中には強生を自分の家の名義にして国民健康保険を享受できるようにしたらどうだという助言をくれる人がいました。
  強生のお母さんはその提案について大家のおばあさんと相談したのです。大家のおばあさんは強生を彼女の名義にしたら問題がもっと簡単になると勧めました。
  しかし一体どうすればいいのでしょう、強生のお母さんは途方に暮れてしまいました。

 いい方法が思い浮かばなかったその時、強生のお母さんと大家のおばあさんは医者に助言を求めに行きました。彼らはその医者の助言に従って実情を現地の市役所に報告したのです。
  市役所の国民健康保険の担当者は、強生一家の住所を調べ、また強生のお父さんに一家の収入状況を確認してから、助ける方法を考え出しました。
  まず強生のお母さんに未支給の保険金を支払わせたのです。すると強生母子の医療費の全額はすべて国民健康保険から病院に支払われ、強生のお母さんは毎月病院に1万円くらい支払えばいいということになりました。
  しかも赤ちゃんの安全を考慮して、医者は強生が1歳になるまでに飛行機に乗ることができないという証明書類を作ってくれました。それゆえ強生母子は引き続き日本に滞在することが許可されたのです。

 それから4ヵ月が過ぎ、小強生も無事退院しました。この子はすっかり食欲旺盛な健康優良児になりました。児童病院の看護婦さんたちはこの強くて小さな生命をとても可愛がってくれたので、小強生が退院するとき、みんな「大事にしてね。」といいながら、名残惜しそうに強生母子に別れを告げたのです。

 強生くん
 月日は瞬く間に過ぎ、小強生は生後10ヶ月になりました。丈夫そうな小強生はもうあちこち這うことができるようになりました。
  よくよだれを垂らす小強生でしたが、大家のおばあさんは彼のことを「よだれ君」と親しく呼んでいました。
  その後小強生はお母さんと一緒に帰国しました。彼は国内で3歳半まで育てられ、そしてようやくある日、お父さんが彼ら母子のためのアメリカのビザをもらえることになり、彼らをアメリカに連れて行ったのです。
  今では小強生は、お父さんとお母さんと一緒にアメリカで幸せに暮らしているそうです。これが一人の日本で生まれた中国人の子供の本当の物語です。

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