僕は、高校卒業後、北京工業大学の計算機学部に入学しました。4年間の大学生活のあと、その勢いで順調に当校の大学院に進学できたのです。院を卒業後、僕は北京中関村の某合資会社に就職することになりました。 しかし当時日本では「IP」人材がとても重視されているということを聞き、就職してから一年も経たないうちに日本に留学にいくことを考え始めたのです。 僕はインターネットを通じて日本の有名大学の理・工学部のホームページを十何ヶ所と調べ上げました。 そうしてじっくり考えた末、大阪大学の「研究と開発インターネット通信技術研究科」の寺谷教授を僕の第一目標とすることにしたのです。 見ず知らずの僕の誠意を十分に示すために、教授に連絡する前に僕は教授本人の情報や研究業績などをインターネット上で詳しく調べました。 その準備を終えてから、僕は教授に最初の手紙を書きました。手紙の中でまず簡単な挨拶をし、それから自己紹介と今回連絡する目的、そして教授の研究業績に対する感嘆の言葉を書き、最後に僕の連絡先を付記しました。 一週間後、寺谷先生はE-mailで僕に返事を下さいました。その内容は主に彼の研究テーマとその方向性の説明、中国の計算機修士卒の人が直接当大学院博士課程を受けることについての説明、特に入学試験を受ける際は日本語だけでなく、英語能力も要求されること、日本語が一級レベルでなければ日本での進学は難しいといったことについて書かれていました。 また、双方のそれまでの研究方向に違いがあるため、寺谷教授は、最初の一、二年間は研究生として入学準備をしてから、試験を受けたほうが、受かる確率やその後の研究などに役立つと僕に勧めてくださいました。 なお、その後の研究にも役立つというのは、大阪大学の博士学位はとても厳しいもので、取得期限内に必ずしも取得できるとは限らないからです。 慎重に考えた末、僕は教授に返事のE-mailを出しました。まず教授のご厚意に感謝をして、そして彼の研究生になりたいという自分の意思をはっきりと伝えました。 やがて、寺谷教授から大阪大学工学部の試験通知書が送られてきました。僕はそれによって日本で試験を受けるための短期ビザを手に入れ、無事に日本にやってきたのです。 日本に来る前、僕はまたE-mailで自分の出発時間と飛行機の便名を寺谷教授に知らせました。教授はさっそく彼の院生に空港まで僕を出迎えさせるという返事をくださいました。寺谷教授が見ず知らずの僕にこんな好意を示してくださったことに僕はとても感動しました。 関西空港についた日、大阪はすでにネオン瞬く夜になっていました。しかし僕はその日本最大級の工業都市の夜景を楽しむ余裕もないまま、迎えに来てくれた森山さんについて寺谷先生の研究室に急ぎました。 研究室で、僕は大きな鞄の中から先生へのお土産を取り出し、先生も遠慮せずそれを受け取ってくれました。最初は先生にお礼をあげることは失礼なことで、怒られるかもしれないと思ったのですが、今はお土産を持ってくることではなくて持ってこないことが失礼なことになると分かった僕は、違う国が違う礼儀を持つということに感慨を覚えずにはいられませんでした。 また、その夜の話に戻れば、寺谷教授は僕の学歴、学位証明書とそれまで書いた論文などの個人資料をご覧になってから、その場で僕を彼の研究生として認めてくださいました。さらに教授は森山さんに僕の入学手続きを手伝うように命じたのです。それらのことはすべて僕の予想外のことで、事がこんなにすんなりいくとは思ってもいませんでした。もちろん学費はきちんと納めなければなりませんけどね。 寺谷先生は僕に大学の留学生センターで日本語を勉強するように言いました。そこでの授業はすべて無料ですが、授業数がちょっと少ないので、少しもの足りない気がしました。でも、研究室の仕事と自分を養うためのアルバイトもあるので、そこは自分の都合に合った場所かもしれないと思いました。 研究室での僕の仕事の進み具合は、先生にも認めてもらえたようですが、日本語のレベルがいまいちなので、一年が過ぎても、僕は大学院の入試試験を受けることができませんでした。 そもそも僕は修士課程を受けるとき、第二外国語として、ほんの少し日本語を学んだことがあるのですが、計算機を専攻する学生は英語が主な言語であるし、しかも日本語は世界中で普及率の低い言葉なので、日本語の勉強をあまり重視していませんでした。 結局ここにきて一年が過ぎても僕の日本語レベルは入試試験に要求されるレベルまでまだ大きな隔たりがありました。それはまさに「在劫難逃」(運命上定まっている難関から逃れないこと)のように、やはり日本語というこの難関を越えなければ次へ進めないということを暗示しているのではないでしょうか。 とにかく一年が過ぎようとする頃、僕は如何に勉強期間を延長するかということをまず解決しなければならなくなりました。 今回僕は、それまでの先生とのE-mailでのやり取りを止めて、直接先生と面会したいという申し出をしました。でもいざ面接すると、先生を前にしてあまりに恥ずかしかったせいか、それまでの勇気が急にどこかに消えてしまったかのようで、研究生の延長の申し出をなかなか口にすることができませんでした。 でも、先生はもうすでに僕のために熟慮してくださったようで「来年、君には研究生のかわりに客員研究員をさせたいのだ。」と僕におっしゃいました。 客員研究員?なんていいチャンスなんだ!研究員になったら学費を納める必要がないだけでなく、逆に補助手当てとして給料をもらえるのです。 先生の話を聞いたその瞬間、僕は今の言葉を聞き間違ったかと、信じられない気持ちで一杯でした。先生のお蔭で、僕はアルバイトを止めて、全身全霊で研究と日本語の勉強に身を投じることができました。 そうしてようやく大学院へ出願するときがやってきました。日本の大学は学者主導の仕組みを取っているので、大学の行政部門は教学とその研究のためにすべてのサービスを提供しています。教務課といい各研究科の付属部門といい、いずれも学生を中心にしているのです。 ですから、それらに尋ねに行く学生に対して、担当する係員は学生がわかるまで丁寧に説明してくれます。説明しにくい所があれば、担当者は図まで書いて説明してくれるときもあります。 僕は入学試験のために入試課を訪ねました。僕は一度きりで試験に受かるために、そこの係員から最近5年以内の過去問題をもらいました。 寮に帰ってから、僕はさっそくそれらの問題について詳しく研究し始めたのです。真剣に試験の準備をしたので、だんだん自信がついてきました。でも試験日まで、僕は少しの油断も許しませんでした。 試験日まで後一週間と迫った日、先生は僕を研究室まで呼んで、そこで90分間の模擬試験を受けさせたのです。 そうして一週間後、僕は試験を見事パスしました。寺谷先生はお祝いの言葉として僕にこういいました。「試験に受かるための工夫は一時的な工夫です。しかもそれは過去の成果しか表しません。研究とは過去の経験の積み重ねが必要であり、さらに絶え間ない努力と一生を賭けて求めていく精神力が必要です。計算機研究の発展は非常に早いもので、ほんの少しでも気を緩めでもしたら君に属すべき成果は他人のものになってしまうのです。いたっては他人に追いつけなくなる危険すらあるのです。ですから今からが君の本格的な始まりなのです」と――。
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