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阿凡提の物語

作者:戎雷雷 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2004-7-9 11:01:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 

東京大学阿凡提の物語 

 ある日、地主が阿凡提にこう聞きました。
「阿凡提、お前ならお金と道義、どちらを選ぶ?」と。
「僕はお金のほうを選びますね。」と阿凡提は答えました。
「ハハハ、わしなら道義を選ぶよ。道義というものはなんと大事だろう。今回はお前の負けだよ!」と、阿凡提を簡単に打ち負かしたと思った地主は大変得意げになりました。
「いいえ、人間は自分にないものを欲しがるから、僕と旦那さまはそう選んだわけですよ。」と、悠然とした阿凡提でした。

  うちは三人兄弟です。しかし僕がまだ小学生の頃、一番上の姉はアメリカのカリフォルニア工学院の院生に受かりました。院を卒業後、夫、つまり僕の義理の兄とともにニュージーランドに移住してしまいました。
 また僕が中学生の頃、二番目の姉は大学を卒業後、日本に留学。修士、博士、そしてポスト博士と順調に進学し、最後は日本で就職しました。彼女もまた行ったきりでした。
 家は実に僕一人きりという「一人っ子」家庭になってしまいました。父母にとって無邪気でいたずら好きの息子であるこの僕は、彼らの「一家団欒」を楽しむ唯一の希望でした。
 僕は兄弟三人の中で一番愛国心の強い子といえるでしょう。北京で大学を卒業した直後、また母校の大学院に入ることができました。院を卒業後、僕は必ずしも理想的とはいえない合資企業に就職しましたが、それでも「住めば都」の気持ちを持ちつづけていました。

 人間とはたぶん阿凡提が言ったように、「自分にないものを欲しがる」ものであるかもしれません。留学生には事欠かない我が家において、父母は「不求上進」(留学に対して積極的ではない)僕に特別な寛容と容認を示してくれ、なおかついたって甘やかすほどに可愛がってくれたのです。
 上の二人の姉は、次から次へと僕をアメリカや日本に留学させるように父母を説得しましたが、父母はそれを無視しました。
 仕方なく最後の手段として、二人の姉は、ともに正月に北京に戻り、説得作戦に全力を尽くしました。しかし、父母は阿凡提物語を引き合いに出し、少しも立場を変えようとはしませんでした。
 とうとう姉は「其人之道還治其人之身」(目には目を、歯には歯を)作戦を決行。僕に阿凡提物語を語って聞かせ、さらに「雷雷、人って自分にないものを欲しがるものだから、今あなたにないものは、まさに‘留学’じゃないの?!」と、重みのある一言。その一言が僕を目ざめさせたのです。
 もともとずっと父母の意見のままだった僕は考えが急変。でも、僕の留学は条件付きでした。つまり、二番目の姉について日本に留学するしかないということです。理由はとても簡単。一番上の姉はいまアメリカにいないからです。

 日本にきて僕は大変苦労しました。中一から今まで僕の第一外国語はずっと英語で、院生のときも第二外国語はドイツ語でした。日本語は僕にとって「扞面杖吹火,一竅不通」(まるで穴の開いていない麺棒で火を吹くように、まったく通じない)なのです。
 でも今のところ阿凡提の言ったとおり、自分にないものを求めるしかできません。日本語ができない僕は、日本語を習うしかほかにありません。
 高等教育を受けてきた「ガリ勉」の姉たちにしてみれば、勉強は彼女らの趣味であり、勉強することは世の中で一番簡単かつ楽しいことかもしれないけど、僕はそこまで勉強に夢中になってはきませんでした。だから、僕は「苦」(苦しみ)を感じたのです。苦労や辛さ、そして悩みも含まれたいろんな「苦」を僕は経験しました。
 国内でそこそこ有名な大学のマスター卒業生である僕は、日本にきて日本語学校生になり、高卒の若者と一つの教室に放り込まれたときの僕の気持ちは、なんともいいようのないものでした。
  
 僕は自分の苦悩を姉に打ち明けました。すると意に反して彼女に厳しく叱られてしまいました。「かつてマスターであろうと、ドクターであろうと、日本語の面では何も知らない小学生でしかない。君はほかの学生に比べ何が自慢できるの?君は何が不満なの?私と姉もみんなこういうふうに過ごしてきたのよ!」と。
 姉の話をきいて、やっぱり古人の「苦其心志」(人の精神を苦しめること)といった言葉は千年不変の真理のように、僕は思いました。
 現代詩人の汪国真はその点について理解が深いようです。彼は「人生そのものから言えば、平坦な人生からは収益は少ない、苦難に満ちた人生には得るものが多い;平坦な人生から得た教訓は浅い、苦難の人生が深い教訓を教えてくれる……だから、優れた人間になりたいならば、苦難を怖がらないで。」といったのです。
  
 東京大学
 留学する前、僕は大学院に入学できるまではバイトをしなくてもいい、金のことならすべて二人の姉の世話になるという「君子協定」が決まっていました。
 とはいえ、阿凡提の言葉が身にしみている僕は、自分に欠けているものはむしろ苦難だろうと思いました。だから僕は自ら苦難を作ってやろうと思ったのです。
 僕は日本語の勉強に励みつつ、少しバイトをもしてみました。ただ、ほかの自費生と違ったのは、彼らは堂々と人前でバイトをしていると言えますが、僕は姉が知らないようにこっそりとやるしかないのです。というのも、僕の一方的な「協定違約」だからです。その点だけから考えれば、ほかの留学生を羨ましく思っています。
 国にいたときは会社勤めで重労働を体験したことがなかったのですが、でも運動好きの僕は頑丈な体の持ち主で、重労働や体力的な辛さに耐えられる自信があります。苦しみや辛さはすべて「鍛錬」ですからね。まして僕は男ですから。

 しかし、日本語の勉強にもかなりの「力」を注ぎましたが、勉強には「力」だけでは足りません。マスターの頭脳だけでもだめです。言葉の勉強には時間と積み重ね、そして頭の回転が必要です。
 僕には外国語を習得する生まれつきの素質があるとはいえませんから、今まで英語とドイツ語の勉強はすべて「硬板功」(コツのないガリ勉)で乗り切ってきたのです。
 だから今、僕はまたかつてのヤル気を出して日本語の単語を懸命に暗記しました。そうしてやっと僕の日本語は、軌道に乗りはじめました。
  
 日本語学校の一年目、僕は日本語に専念しました。二年目に、日本語学校に通いながら、東京大学生産技術研究所の小林教授の研究生に受かったのです。ここでいう「研究生」とは、国でいうマスターのことではなく、院生になる前の予備生のようなものです。
 小林教授が担当した計算機研究科には修士もいれば博士もいます。教授は自ら修士や博士を育てることを特に好むようです。というのも、彼はよその学校から入ってきた学生の専攻が自分の研究室で適用であるかどうか把握しにくいからです。
 ですから、彼の院生になりたい人は、「研究生」という「桟道」(きりたった崖などに張り出して設けた道)を渡らなければ彼の研究室の一員になりえないのです。つまり、他所の修士卒業生である僕が彼の正規学生になるためには、まず彼の研究生にならなければならないのです。
 それから僕は小林先生の指導を受けて基礎研究(つまり修士課程の研究内容)から初めて、彼の考察を受け始めました。
 
 最初の三ヶ月間、彼は僕の研究方法が気に入らないようでした。一年後、僕の進路について彼はあいまいな態度を取っていました。それを察知した僕は、進んで先生に面談させてもらえるようにメールで頼んでみました。
 彼との面会で僕は、自分の研究目標と考えを説明した上で、また自分の研究がもし先生の研究趣向と衝突するところがあれば、こちらから調整を図りますという意向を彼に率直に伝えました。
 日本の教授はたいてい学生の意思を尊重し、その能動性を支持し、包容する態度を取るものです。ですから、僕の計画を聞いた小林教授は僕の計画を認めてくれました。その後、彼が僕の研究に少し興味を持つようになったことは明らかです。
 
 日本の教授は科学研究のリーダーとしての役目をまともに果たしていると思います。彼らはすべての研究テーマに手を伸ばす訳ではありません。だから、教授は自分の管理している研究条件の範囲の中で、学生たちの創造性と自由な研究を奨励するのです。
 それに学生間での研究交流や相互の助け合いなども推奨し、学生たちは自分の指導教授がかつてやったこともない、考えたこともない研究に自由に挑戦することができるのです。これも阿凡提の言葉の示したように、自分にないものを欲しがる姿なのでしょう。
 なお、僕は小林教授に認められたら、入学試験は単なる一つの形式に過ぎません。とりわけ、博士の入学試験はそうだと思います。英語の試験が共通問題ですが、専門科目に関する問題はまったく教授次第で出題されています。すなわち日本では、高等教育であればあるほど、教授の学生を選ぶ主導権が大きくなるといえるでしょう。

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