 私が社長に与えた印象はそれほど悪くなかったのでしょう。私が入ってから一年後、社長はもう一人の中国人を雇いました。 彼は某大学別科の留学生で、年のころは24歳くらい、名前はDさんといいました。 最初、社長は部屋を一つ空けて、無料で彼に住まわせました。また、彼が慣れるまでの間、配達する新聞を50部しか割り当てなかったのです。 Dさんはあまり日本語が通じないので、仕事の説明は殆ど私がやりました。社長とDさんは言葉が通じないので、二人の通訳も私が引き受けたのです。 仕事をしていく中で、Dさんは過保護に育った一人っ子で、仕事の飲み込みも悪いタイプで、また思いやりの気持ちにも欠ける人のようだということが分かってきました。それでも社長は、それがまだ仕事に慣れないからだろうと、許してあげていたのです。 社長は私に、彼への毎日の指示を伝えさせました。そうこうするうちに、どうやらDさんは私に不満を抱いているようだと感じるようになりました。 彼の日本語が少しずつ上達していくにつれて、彼は店の日本人同僚とだんだん会話できるようになりました。そうして彼の態度が徐々に明らかになってきたのです。 彼は、日本人同僚と話すときは、いつもうやうやしい態度なのに、私に対しては指示(伝言)を無視するどころか、ときにわざと正反対のことをやってしまうのでした。彼にとって同じ中国人の私は、彼の敵であるかのようでした。
ところで、まだ日本語のヒヤリングが上手くない彼は、社長の指示に対していつも、分からないのに分かったふりをしていました。ですから、よく指示を聞いていても、やり方が全然分からない、といったことが多かったのです。 何回もミスを犯してから、社長はとうとう怒り出してしまいました。すると社長は、直接に彼に指示することを止め、すべて私に伝言させるようにしました。私は、社長が時々厳しい言葉を使っても、なるべくDさんが傷付かないように優しく通訳したのです。 一方、Dさんの方も、自分の仕事量が少ないので収入が少ない、ということを不満に思っていました。そして彼は、もっと仕事の量を増やしてほしいと社長に要請したのです。社長は彼の仕事を100部にまで増やしました。  Dさんは、私が社長に彼の悪口を言ったと疑っていたようで、私に対する敵意は日に日に増す一方でした。彼は私に対する挨拶まで省略するようになってしまいました。 また、Dさんは、住み込みなのに店内の掃除を一切しませんでした。彼の50部の新聞にもよく配達漏れのミスがあったのです。 指示がなければ動かないという彼に対して、社長もだんだん疲れを感じ始めたようでした。 ある日、Dさんはとうとう社長に言いたいことを全部打ち明けたのです。「僕は大学生で、彼女(私のこと)はただの‘家族滞在’(身内を頼って来日している)なのに、なぜ僕が彼女の言うことを聞かなければならないですか?」と。 その後、社長はDさんのことを私に折り返し言ってきて、そして付け加えてこう言いました。「一体どこの大学だと言うんだ。ケツから二番じゃないか!高校生のほうがまだましだ。うちに子がいたら絶対行かせないぞ!」と。 彼の言葉がとても面白いので、私は思わず彼に聞きました。「じゃ、ケツから一番の大学はどれですか?」と。彼は、近くのある単科大学の名前を挙げました。そのとき私は「日本人の間でも大学ランキングというものがあったんだ。」と初めて知ったのです。 社長がそんな風に言うのも、訳があるのです。彼は若い頃、実家がとても富裕だったので、二つの大学で勉強したといいます。しかも二つとも一流大学です。 しかし、両親が世を去ってから、彼はギャンブルに夢中になり、家の財産をすべてギャンブルに注ぎ込んだのです。そうして今の彼は、一生懸命働かなければならなくなった、という訳です。 社長にとって、お金があれば入れる大学なんてクズ同然なのだ、ということが分かりました。また私は、Dさんの話から、留学生である彼が、中国国内大卒の私のことを軽蔑しているらしい、ということも知ったのです。 社長が翌月からDさんの仕事を増やしてあげようと思い、新しいバイクまで買ってあげたとき(Dさんにはまだ言ってなかったのですが)、Dさんは突然仕事をやめてしまいました。Dさんのおじさんが彼にもっといい仕事を見つけてあげたらしいのです。 Dさんが辞めるとき、社長は何も言いませんでした。まもなく、Dさんという人はみんなの記憶から忘れられて行きました。
社長は今も相変わらず、よく李さんのことを思い出すようです。
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