毎週日曜日、午後4時ぐらいになると、住宅地には灯油売りの車がグルグルと廻りにきます。支払いの請求もあるので、灯油売りの運転手さんは灯油を入れると、自ら灯油入れのバケツを持って、家の玄関まできてくれるのです。 ですから、買う人はただ事前に灯油入れのバケツを近くの道端に置くだけでいいのです。 日曜日にこの辺に灯油を売りにくる業者は2社あります。人々はその業者を、それぞれの定番音楽で識別します。 うちはいつも「第九交響曲」を定番曲とする会社の灯油を買います。普通は、曲の一部が放送されてから、「灯油、灯油~」という掛け声が聞こえてくるのです。 この定番曲を聞くたびに思わず、自分が作曲した名曲を灯油の掛け声がわりにされる事にムッとするベートーベンの様子を想像してしまうことがしばしばあります。
ある日のことですが、僕はいつものように4時前に灯油入れのバケツを家の前の道端に置いておきました。しばらくして、第九交響曲が聞こえてきました。 ただその音がいつもとちょっと違って、いつもならその音が遠くからだんだん近づいてくるような感じがするのに、今日は家の真下で急に現れたのです。 「おかしいな」と思ったちょうどその時、「パパ、誰かがうちのバケツを盗んだよ!」という、子供の声が聞こえてきました。 僕は急いで道に出て確かめに行ったのですが、確かにうちのバケツは無くなっていました。しかも、灯油売りの車の姿も消えていたのです。
僕は上着を引っ掛けながら、道沿いにバケツを探し始めました。しばらく歩いたところで、後ろから再び第九交響曲が聞こえてきました。 振りかえって見ると、その車は家から100メートルくらいのところで止まっているのです。しかも、ある若者が灯油で一杯になったバケツを持って、うちまで駆けつける姿を見かけたのです。 後になって、そのバケツの謎が解けました。あの若者は、他の給油業者に客を取られてしまうことを心配して、先に小口の客のバケツを自分の車に集めておいて、大口の客に灯油を売り終えてから、また戻ってきて小口の客ために、灯油を届けてくれたんですね。 やはりこの世に灯油バケツを盗む人なんかいるわけがないですからね! また話を戻します。僕は家に戻る途中、次のような一幕を目にしました。 うちの近所に、いつも毎朝、お散歩に出かける太ったワンちゃんと、その飼い主の二人のおばさんがいます。 その日彼らは、ちょうど灯油売りの車の近くに立ち止まっていました。太ったワンちゃんは地面に伏せたきり、少しも動こうとしません。 おばさんたちが、優しくワンちゃんに声をかけても、ワンちゃんは彼女達を無視するばかりでした。仕方がなく、おばさん達は力を合わせてワンちゃんを運ぶことにしたのです。 ワンちゃんは二人にすっかり身を任せてしまったようで、何の反応も示しません。 しかし、ワンちゃんがあまりに重いので、おばさん達は30メートルも進まないうちに、もう辛くて止まってしまったのです。 一休みをして、二人は再びワンちゃんを運び始めました。すると今度は、20メートルほど歩いたところで、ワンちゃんが急に地面に降りようとしたのです。おばさん達は喜んでワンちゃんを下ろしました。 ワンちゃんは何事もなかったかのような勢いで、とても元気にあちこち嗅ぎ周りながら前に歩きだしました。おばさん達は、「やっと機嫌が治ったわね!」と一安心をしたのです。すると、一人のおばさんが、突然何かに気づいたように言いました。「もしかしてあの車の音楽が怖かったのかしら?」 確かに、今彼女達が立っているところでは、第九交響曲の音楽がかなり小さくなっていたのです。もう一人のおばさんも、「なるほど。そうかもしれない!」と、納得しきりで頷いたのです。
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