「a, o, e,…… b, p, m, f……」、この一連のアルファベット(中国語でピンインといいます)を見て、あなたは何を連想するでしょう?
私がまだ小学校1年生だった頃、小学生たちにとって、ピンインは毎日の授業に不可欠なものでした。
毎日教室でみんな一緒に、ピンインの発音練習をしていたのです。その様子はどう表現すればいいでしょう。――そうそう、初めて聞いた人は、みんな一緒になって念仏を唱えているかのような感じを受けるでしょうね。
一回、もう一回、また一回……、口がカラカラになって、先生に「ストップ」と言われるまで、繰り返し練習したものでした。
十数年後のいま、東京に来た私は、再びピンインの発音練習に取り掛かりました。ただし、今回は学ぶ立場から教える立場になったのです。
今年の三月、大学は春休みに入ったので、私はその時間を利用してしばらく国に戻っていました。
帰国する前はすごいホームシックにかかっていたのですが、いったん帰国してみると、何もする事がないということに気がつきました。同窓生達はみんな就職したので、遊ぶ時間は余りありません。
私一人だけが、家で何もせずにゴロゴロするばかりでした。あまりにつまらないので、パソコンを立ち上げて、インターネットの世界で自分の時間を潰そうとしたのです(インターネットの世界では時間が経つのは速いですからね)。
ある日、私はふと何かを思いつきました。さっそく、日本語版のYahooのホームページを開いて、そこの検索の所に「中国語教師」と入力したのです。
すると、たくさんの関連ページのURLが表示されました。またその中に、中国語教師をやりたい人と中国語を学びたい人を紹介するホームページがあり、私はそこに登録することにしました。私はそこの登録フォームに自分の連絡先と簡単な自己アピールの文章を入力してから、送信ボタンを押しました。
その後何が起こったかというと、その晩、私のメールボックスの中はおびただしい数のメールで一杯になってしまったのです!
送信者はいろいろな人がいました。まさに、試さないと分からないことも、試してみれば素晴らしい世界が見えてくるものですね。
送信してくれた人たちはみんな中国語を学びたい人で、しかも中には仕事の関係で学びたい人や中国留学準備のために学びたい人、そして中国人のボーイフレンドと中国語で交流したいからという人もいました。(ボーイフレンドは九州の学校で勉強しているそうです)
やはりこうして見ると、中国の経済発展に伴って、中国語ブームはますます盛んになってきているような気がします。
それから数日の間、私と応募者たちは、レッスン時間や場所、料金などについて交渉を行いました。そして最後に5人の応募者が残ったのです。
春休みも明けて、私は東京に戻ってきました。まずすべき事は、5人の応募者と面会することです。でも一人一人いろいろな都合もあって、本当に最後までずっと私について学びたいという人は一人しか残りませんでした。その人が今回の主人公なのです。
彼は斎藤さんという人で38歳になります。彼は現在とある会社に勤めているのですが、会社の対中国業務が年々増えていくにつれて、中国に出張することも多くなったそうです。(北京滞在が多いそうです)
彼が中国で一番心細いと思うことは、一人でタクシーに乗ることだといいました。なぜなら言葉が通じないからだそうです。
彼の話によると、ある日タクシーに乗って、やっと学んだばかりの「我要去長富宮」(長富宮というところに行きたいのですが)という言葉を、自信満々にタクシー運転手さんに言ったのですが、返ってきた反応はただ運転手さんの首をひねるような表情だけでした。
結局斎藤さんは予備策として前もって用意してきた紙切れを、相手に渡すしかできない破目になったのです。そうして斎藤さんはその後、絶対中国語を勉強するぞ!と強く決心したそうです。
ビジネス用語がペラペラ、とまではいかなくても、せめて日常会話ができるようになりたいと彼はいいました。こうして彼は私の生徒になったのです。
中国語は世界で最も難しい言語だよく言われますが、その意味が今になってやっと分かりました。日本語を勉強し始めたとき、発音の練習に少しも苦を感じなかった私は、日本人生徒が中国語の発音を練習するのに、かなり苦労している姿を見て、中国語の難しさを理解したのです。
それも当然のことだと私は思いました。だって、中国語の発音は日本語にまったくない音があるので、日本人は当然そういう発音に出会うと、なるべく日本語の発音と似ているところを探し、それに基づいて発音をこなそうとしたがるのです。そうすると、その人の発音は見事におかしくなってしまいます。
そういう学び方は日本人の英語の勉強方法とかなり関連していると思います。日本人の英語発音は日本人しかわからないようです。というのも、その発音は英語をカタカナで新しく表記しなおしたものだからです。
ここでふとある話を思い出しました。最近アメリカ人は日本人と貿易をしやすくするために、和製英語を勉強し始める会社も出てきたそうです。
「僕が分からないというわけではなくて、この世界の変化があまりに速すぎるのです。」と斎藤さんはいいました。日本語の発音のやさしさは日本人の外国語勉強に大きな障害になっていると思います。たとえば、それによって日本人生徒は中国語の「前鼻音」と「後鼻音」をうまく区別することが出来なかったりします。
ですから、ちょっとイライラした斎藤さんは突然「何で日本人に生まれたんだろう!」と冗談半分で言い出したりするのです。
斎藤さんは仕事がとても忙しいらしく、週に一回の授業しか受けられないことになっています。今日はちょうど三回目です。ですから、彼はまだピンイン練習の段階です。このままではいつ肝心の文法に入れるか、教える私も実は分からないのです。
斎藤さんの最も大きな特徴はおしゃべりだということです。その点は普通の日本人とちょっと違うようです。毎回の中国語講座は2時間程度ですが、その中の1時間くらいはいつも彼のおしゃべり時間になってしまうのです。
仕事の関係で、彼は今までいろんなところに行ってきたので、経験が相当に豊富なようです。そこにおしゃべり好きという個性が加わった結果、彼は日本経済の発展情勢から日本の若者が不勉強だなどということまで、自分の経験を挟んでよくおしゃべりをしてくれました。
正直に言うと、彼の話から、私の見聞もずいぶん広まったようです。いい勉強になりました。でも、こちらはお金を取るほうですから、ちゃんと中国語を教えないと申し訳ないと思います。だから私はいつも話の区切りの良いところで、「じゃ、中国語の勉強に戻りましょうか。」といいます。
本来の目的から外れたことに気づいた彼が、「ああ、そうだ、そうだった、そうだった!」ということはしょっちゅうあるのです。
彼の話によると、彼はある映画づくりの準備作業に参加しているので、今日の昼間、名古屋から駆けつけてきたばかりだそうです。今日の午後は4時半から中国語の授業を受け、また7時に会社のミーティングに出なければなりません。
その上ゴールデンウィークも彼にはまったく関係がないようです。そんな時、ほかの日本人はおそらく旅行に行く途中だとか、強い日差し、白い砂浜、心地よい海風の吹くハワイの魅力的なトロピカルリゾートを楽しんでいたりするかもしれませんけどね。
今日の中国語講座は6時50分まででした。駅までの道すがら、彼は熱心に自分の計画を教えてくれました。彼の計画は、中国語のホームページを開くことです。私は彼のホームページ作りを手伝うよう頼まれました。けれども私はそんな彼を見て、ただただ疲れを知らないすごい人だなと感心するばかりでした。
斎藤さんが誰に似てるかって?皆さん「Mr.Bean」というイギリスのコミック映画シリーズはまだ記憶に新しいことでしょう。斎藤さんはそのミスター・ビーンにそっくり!
最後に、彼の映画が成功しホームページも順調に行くように祈ります。もちろん、最も願っていることは、彼の中国語が上手になりますように、ということですね。だって私は一応彼の先生なのですから!