今から5年前、僕は内モンゴル師範大学のロシア語学部を卒業しました。しかしそのとき、50年代に一時ブームになっていたロシア語は、その後の政治や経済の変化などが原因で、かつての人気もすっかりどこかに消えうせてしまった後でした。
コロンベル大草原からなんとかして出るのを願っていた僕は、いろんな手を尽くしてやっと当時、牟其中により創立され、「優秀企業家による国家級大会社」と謳われた会社―――その後「中国首騙」(中国での詐欺会社ナンバーワン)といわれることになる会社の北京本部に就職することができました。
入社してからの二年間、仕事はあまりなく、しかもロシア語を使う機会もなかったので、会社を辞めることを決意しました。
僕は自分のありったけの貯金を持って、新しい人生を描きたかったのです。そうして家族の引き止めと友達の励ましを背に、僕は東京にやってきました。
僕のように日本国外で16年間の正規教育を受けた留学生は、日本の大学院に進学することができます。しかし僕の専攻は日本ではあまり使われていないロシア語で、しかもその上第二外国語は英語だったので、日本語はまったくの空白だったのです。ですから日本語の難関を乗り越えない限り、大学院への進学など論外なのです。
言葉というものは、まさに「会者不難,難在不会」(できる人にとって難しくないが、言葉の難しさはできないところにあるということ)、上達するまでの近道はまったくありません。
いくら気がせいている僕であっても、やはりまず早稲田大学留学生別科に入って日本語を勉強することから始めるしかありませんでした。
僕はそもそも外国語を勉強する人間でしたから、言葉の勉強には集中力がきわめて重要だということをよく知っています。第一学期、僕はすべての精力を日本語の勉強に注ぎ、そのおかげで進歩は早いほうでした。
日本人先生に誉められたり、クラスメート達に羨ましがられたりすることよりも、自分が満足いく結果を出せたのが一番気持ちよかったのです。
夏学期が過ぎ、僕の貯金はなくなりかけてきました。「民以食為天」(一番先に考えるのは食)、仙人のように普段の食事を断っても学費を納めないわけにはいきません。
日本では小学校から中学を卒業するまでの教育は、お金を一銭も納めない義務教育なのですが、大学の教育を受けることになると、学費はぐっと上げられてしまいます。
ですから半年後、僕も収入の少ないレストランのアルバイトの一員になったのです。バイト生活が始まってから、予習と復習に費やす時間が足りなくなってきました。せいぜい授業の進み具合に間に合う程度でした。その時から、時間が厳しくなったことや勉強が前ほどしっかりできないことなどを、身にしみて実感するようになりました。
それでも、ほかの留学生はバイトと勉強を両立させ、日本語も上達させ、最後には見事大学に入る人が少なくありません。他人ができることなら僕にもできると思いました。
でも僕はやはりその時の日本語先生に自分の悩みを打ち明けました。米山先生は僕の話を聞いて、よく理解してくださったようです。
まず彼女は大学の留学生別科と日本語学校との違いをこのように説明してくださいました。日本語学校の教育方針は「一級日本語能力試験」を通ればいいという方針なので、試験に通ったことは学生の実際の日本語能力を反映しているとは限りません。
留学生別科の主旨は、単なる試験対策のような教育ではなく、留学生が実際に日本語を使う能力と、日本の生活に早く馴染むような能力を養うことを目指しているというのです。別科で日本語をしっかりと勉強した学生は、日本語試験を通ることはもちろん、日本の文化、生活、社会を全面的に理解できるようになるのです。しかし別科の学習スケジュールは、アルバイトの時間を考慮に入れていません。
米山先生は最後に「困ったことがあれば遠慮なく言ってください。田さん頑張ってね。」とおっしゃってくれました。
熱心な米山先生はさっそく僕にとある会社のオフィスビル掃除の仕事を紹介してくださいました。会社の規定によれば、毎日の仕事時間は4時間程度ですが、実際に仕事の早い人なら1時間で終えてしまうのです。しかも仕事を終えたら、自由に帰ることもできます。それでも4時間分の給料を確実にもらえるのです。また、週末の2日は朝から夜まで働けるので、米山先生のおかげで僕の学費と生活費の問題は完全に解決されました。そうして僕はバイトが勉強に与える影響を最小限にとどめることが出来たのです。
冗談で言うなら、僕は「走了桃花運」(桃花運とは女運のこと。「米山先生」は女性なので、幸運で女性の先生から助けをもらったということを示す。)ですね。でもそういうような幸運は自然に天から降ってきたものではないのです。もし僕が進んで先生に自分のことを打ち明けなかったら、その幸運にめぐり合うことはできなかったでしょうね。
チャンスは人の努力に目をつけるものです。努力しさえすればまた新しいチャンスが来るかもしれないのです。しかし努力しなければ幸運や奇跡は起こるわけがないのだと、僕はそんなふうに結論を出したのです。
2年、この異国の地で僕は2年もがんばってきました。1998年、僕は日本語の勉強を終えて、大学院への進学を本格的に取り組み始めました。早稲田大学は有名な大学ですから少しの油断も許されません。
したがって僕は入試試験の半年前からすでに、入りたい早大の経済研究科の椎名教授と手紙で連絡をとり始めたのです。最初、椎名教授はロシア語専攻で経済学の素人である僕には目もくれないだろうと心配したのですが、案外に先生はご多忙の中から時間をとられ、わざわざ僕のために面会してくださったのです。僕は先生のご好意から励ましを感じました。
当時椎名先生は、市場経済と計画経済の比較研究をなさっていたそうで、ちょうど旧ソ連と中国ともかつて計画経済方式をとっていた国で、僕は経済学を学んだことはないものの、中国語とロシア語のできる学生として先生の研究に役立つであろうと思われたことが、僕のことを受け入れてくれた理由の一つであったのでしょう。
でも椎名先生は非常にきれいなロシア語で僕にこういいました。
「田君、経済学の研究は長期的な課題ですから、また途中で気を変えるなら、ちょっと難しい話になっちゃいますよ……」と。
やはり、椎名先生は僕が元の専攻とまったく関わりのない経済学を選ぶことに対して、少し迷いをもたれたようです。ですから、僕は先生の心配を解消してみようと決心しました。
学問に専念する人にとって一番居忌まれることは「朝秦暮楚」(朝には秦に仕え、夕べには楚に仕える、つまり節操がないこと)だと、僕はよく分かっていたのです。ですから、僕は実際の行動で先生に自分の誠意を証明するしかないと思いました。
その後、僕は椎名先生が指定してくださった参考書をしっかり読み込み、十分理解してから、自分の感想を付け加えたのです。また疑問に思うところがあれば、すぐ椎名先生に聞いたりもしました。
時々日本語でうまく表現できなければ、ロシア語までも使い出しました。幸い、僕と椎名先生はロシア語という「共通言語」をもっているので大変助かりました。
椎名先生は僕の勉強ぶりから僕の誠意を読み取られたのでしょう、先生と接触しているうちに、僕は直感でだんだん自分が認めてもらえつつあると感じました。
僕には経済学についての研究経験がないので、入学試験まであと3ヶ月と迫ったとき、僕は早大大学院の入試課からこの3年間の過去問題を見つけ出して解いてみることにしました。分からないところがあればまとめて椎名先生に尋ねに行ったりして、それらの問題を完全に理解するまでがんばりました。椎名先生が僕のために個別指導を行って下さったおかげで、僕の得るところは非常に大きかったのです。
僕はもう修士を卒業して、今は博士課程に入りました。僕の指導先生はもちろん椎名先生です。