5千年もの長きに亘る悠久の中国文化は、古来より周りの国々に大きな影響を及ぼしてきました。日本はその中でも最も影響された国といえるでしょう。日本文化は、様々な面で中国文化の影響を反映しているといえます。
というのも、私が日本語を習い始める前に、「日本人の知識レベルはその人が漢字をどれぐらい知っているかによって評価されるそうよ。だから私たちにとって日本語は簡単、簡単!」と、ある友達に冗談半分に言われたことがあるからです。
話に聞いただけで、そんなことは絶対ありえないとは言い切れません。なぜなら日本製品の説明書を見れば、ぜんぜん日本語が分からない中国人でも、その中の漢字を見るだけで大体内容をつかむことができるからです。しかし本格的に日本語を勉強することになると、はたして簡単だといえるのでしょうか?
日本はさすが中国と切っても切れない縁を持つ国だと、日本にやってきた私はそう感慨を抱かずにはいられませんでした。日本人の考え方や処世術など中国人と似ている部分が確かに多いのです。それはおそらく孔子の儒教思想が大きく広まった功績によるものでしょう。
しかし近代になると、日本は全面的に西洋文化を吸収するようになり、また様々な面で中国とまったく違う考え方とやり方を持つようになったのです。ですからある人は日本人のことを「バナナ」のようだと表現しました。つまり日本人はバナナのように肌が黄色いにもかかわらず、中身が「白」であると。
さて日本人は一体どのような点で中国人と違うのかを見てみましょう。中国人は「情」という文字を特に大事にしているようです。それを説明するには、中国人の「奢る」という行為以上に分かりやすい例はないでしょう。
鎖国した時間があまりに長すぎたせいか、それとも共産主義の思想を注がれすぎたせいか、中国人にとってお金というものは「情」を傷付ける(損なう)くだらないものと考えられているようです。いつからか、友達の間ではお金のことを言い出すことが出来なくなってしまいました。
中国では以下のような光景がしばしば見られます。何人かの友達が一緒に飲みに行きます。みんな飲みたいだけ飲み、喋りたいだけ喋り、とても盛り上がりました。
しかし飲み会が終わりに近づくと、決まって誰もがみんなの分全てを、自ら気前良く払おうとするのです。しかも一人ではなく、同時に何人もが勘定を払うことを競い合う場合が多いのです。時にはみんなが顔を真っ赤にしてまで勘定のことで争います。
でもそんな姿を見てもちっとも不思議ではないのです。なぜなら奢った人にとって少しばかりのお金は損したものの、友達の前で自分の面子を十分に保てたのですから文句もないのです。
では奢られた人は得をしたかというと、まだそう思うのは早すぎます。というのも今度いつか自分の奢る番が来るということが暗黙のルールなのですから。
それぞれ出すお金が多少違っても、友達の間でそんなことを気にするのはみっともないことなのです。
それに対して、日本人のお金に対する態度はまるっきり違います。私が日本人の金銭感覚を知り始めたのは3年前のことです。
そのとき私はまだ中国のある大学に在学していました。ある日私と同室のメンバー達が何人かの日本人の友達を誘って、とあるところに遊びにいきました。目的地までは小型バスで行くのですが、バス代は一人あたり一元でした。
普段中国人だけのときは必ず誰もが争ってみんなのバス代を払おうとするのですが、その日、日本人の友達はみんな乗車後に自分のバス代だけを取り出して払おうとしました。
彼らのそうした行動があまりに自然なので、「奢る」習慣になじんだ私達中国人学生はそれを見て一瞬唖然としてしまいました。
その後それを日本語で「割り勘」というのだということが分かりました。こういう割り勘のやり方はせっかく築いた「情」を傷付けると中国人には思われるかもしれませんが、お互いの心理的な負担を大幅に減らすことができるのが割り勘の長所だともいえます。
欧米の人も割り勘のやり方を取っていて、何か特別な理由もなく、わざわざ他人のためにお金を払ってしまうことは、相手に対する「施し」だと誤解されやすいというのです。
日本人との付き合いが長くなってくるにつれて、割り勘のやり方にもだんだん慣れてきました。もちろん日本人の友達と一緒にいる場合に限りますが。
異文化を積極的に理解しようとしないで、単に自分の馴染んだ「常識」と違うだけで勝手にそれを批判する人に対して、自分は国際性を持っているのだと得意に思い込んでいた私は、最近ある出来事により再びカルチャー・ショックを受けることになりました。
今年のお正月、学校の日本人の友達に誘われ、私は奈良県にある彼女の実家に3日ほどホームステイにいきました。奈良は東京とはまったく違う雰囲気のところで、彼女の実家は奈良県のある静かな小さな町にありました。
そこに住む人々はとても素朴な人たちです。彼女のご両親は、初めての外国からの来客である私に、言いようのないほどの歓待をして下さいました。
さて奈良に着いた翌日のことです。彼女と彼女の弟、そしてもう一人の友達と私の4人で一緒にカラオケに行きました。私達のあまり上手ではない歌声に流されるように、あっという間に時が過ぎていきました。
短い2時間のカラオケタイムはとても楽しいもので、カラオケボックスから出たとき、みんなの顔は紅潮し、目も楽しさに輝いていました。
料金は4人で3000円で、一人あたり750円です。私と彼女の弟はそれぞれ1000円札を彼女の手に渡しました。しかし次の瞬間、彼女はごく自然に財布から250円のおつりを取り出して弟に返したのです。
「兄弟の間までも、そんなにお金をきっちりする必要があるの?兄弟の割り勘ってどういうこと!?」と驚くことしきりな私でした。
それからというもの、私は日本人の割り勘についてさらなる認識を深めました。けれどもあの日の出来事をどうしても納得することが出来ません。
もちろん中国にも、「親兄弟明算帳」(兄弟の間でも勘定をきちんとしなければならない)という言葉があるのですが、ただしそれは兄弟が経済的に自立してからの場合を指します。
それにその言葉はよく商売人の間で使われるイメージがあり、彼女達のように姉が大学生で弟が高校生、二人ともまだ経済的に自立していないのに、割り勘にするなんて!
まさに「不看不知道,世界真奇妙」(見ないと分からないが、世界は本当に奇妙だ。)と思わざるをえませんでした。
それからずっと、その250円のおつりのことが気になっていた私は、直接彼女に聞きたかったのですが、あまりに失礼なことなのではないかと思って結局やめてしまいました。
先日たまたま日中近代文化比較研究をしているある教授に出会い、やっと彼から回答らしきものを少し見つけることができました。
その教授は文化形式の相違という観点から日中近代化の諸差異と、それらの差異が両国にそれぞれどのような影響をもたらしてきたかということを研究されているそうです。
その中に協力形態という問題定義があります。「中国は主に親族協力の形を取っているのに対し、日本は非親族協力の形を取っています。具体的な例を言うと、中国人は「孝」を強調するのに対し、日本人は「忠」を重視するのです。」とその教授は言いました。
教授の理論を割り勘とつなげて考えてみると、割り勘は日本人の親族意識が中国人より薄いことの現れであろうと私は考えました。
でももちろん、このような問題にはこれだという確かな結論はないと思います。その回答はただ私が個人の疑問を少なからず解決するために導き出した、一種の解釈に過ぎません。
今ここでその二つの協力形態のうちどちらが優れているかを述べるつもりはないし、そもそもこういう問題には、はっきりとした回答もないと思います。
違う国、違う民族、違う歴史、そして違う文化、あまりに多くの違いが社会に存在しているのですから、私たちが一つの尺度で物事を測ることは不可能なのです。
この間、国際電話カードを買うときに、割引のことを気にするあまりカードの有効期限を見逃してしまいました。3枚ものカードを買ってしまった私は、家に帰ってからカードの有効期限が5月30日までしかないことに気づきました。
いうまでもなく、春休みの一時帰国の1ヶ月間を除いて、3枚のカード(普通、カードの通話使用可能時間は1枚100分以上である)を使い切ることはできないでしょう。
ちょうどその日に、ある中国人の友達が自分の国際電話カードを使い切ってしまったと聞き、思わず「私のカードを使って」と申し出てしまいました。
1枚のカードを彼に渡し、相手はお金を払おうとしました。でも私はどうしても商売をするようなことが好きになれなくて、彼のお金を受け取れませんでした。
やはり異文化を理解していると同時に、私はいつもの私と少しも変わることがないのです。それをなんと言いましたっけ?そう、「江山易改,本性難移」(三つ子の魂百まで)です。