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難題

作者:未知  来源:贯通论坛   更新:2004-7-11 6:44:00  点击:  切换到繁體中文

 

一昔の中国では、「私、われわれ、我党、我軍、我国、我工場、我社、我公社、我生産隊、我村」といった言葉が主語となるのが常でした。しかもその主語の中では、私個人と団体とは一体になっているのです。
 今、国を出て日本にやって来た私は、中国人である自分と異国である日本の間に挟まれ、以前のように「私はみんなであり、みんなは私である。」
という論理を使うことが出来なくなってしまったのです。
 論文の山
 ですから、ここで改めて他人の真似をして日本語の論文を書くとき、以前の「われわれ」というニュアンスに馴染んでいるせいか、いつも主語の処理に苦労します。
 昔は、ある出来事の
「偉大な意義」
について述べるのは、造作もないことでした。というのも、個人が利益を得ていなくても、「我国」や「われわれ」が利益を享受したのであれば、それこそが「偉大な意義」であると考えられていたからです。
 しかし、今ではそのような書き方は通用しなくなってしまいました。今書いた、あるいはこれから書こうとする文章は、外国人に見せるためのもので、文章の内容もたいてい外国のことですから、いわゆる「効果」や「意義」などについて説明するなら、そこに書いてある事実は
個人個人を確実に納得させるもの
でなくてはならないのです。

 これには困りました。文章を書くたびに、一字一句を細かく推敲しなければなりません。それはまるで「白玉堂夜探銅网陣,前后都得照応到」(至るところ、気を使わなくてはならないことの喩え)のようで、自分がその言葉ゲームの虜にならないように、いつも慎ましやかに書かなければならないのです。
 とりわけ結論を出すことは、最も人を悩ますことです。というのも、
分析には客観的な視点が必要
で、その結論は「われわれ」が決めることでもないし、「彼ら」が決めることでもない、決めるのは、ただ「現実」のみであるからです。結局、主語のある文章がどこにもない、ということになってしまいます。
 
 自分がまだ調査しきれないことについて、好き勝手に述べることは最もいけないことです。ですから、そういう事にぶつかってしまったら、あらかじめ用意した
逃げ口上
を使います。 たとえば、「調査不足で、まだ熟慮の余地があります。」とか、「今後その面について研究を続けて行きたい。」などです。
 この逃げ口上が出たら、聞いている方も、「それなら今回は取り合えず許してあげましょう。」と言って、まるで三国志の関羽のように、みんな暗黙のうちに、適当に問い詰めを引っ込めるのです。

 客観的になるためには、まず第三者になって様々な角度から物事を論じなければなりません。すなわち人々、みんな、彼らの需要について、異なる視点から客観的に述べるのです。
 物事を判断する中で、自分の主観的な憶断や個人感情、個人の好き嫌いなどが入り込んではいけません。そうこうして、比較的中性の、建設的な意見を生み出すことができるというのです。
 つまり何か述べるとき、他人を傷付けない程度の言葉を使うのです。他人を傷付けたら、最後に不利になるのは自分だという訳です。
 私はいつも不思議に思います。日本には太極拳がないのに、文章の書き方は
太極拳の拳術にきわめて類似
しているのですから!

 ところで、上述のようなことは、結局は慣れの問題だと思います。しかし最大の難題は、もっと別のところにあるのです。それは日本でも中国でも、
口に出すことすら許されない問題
というものがある、ということです。
 もし、誰かが自らそういった問題を自分の論文で取り上げようものなら、自分で自分の首をしめる事になりかねません。日本では、まったく口に出せないという訳ではないけれども、でも一部の団体がいて、彼らの口に合わない話をするのは、自ら災いを招く行為であるといえるでしょう。たとえばアイヌ問題や戦争問題などですね。
 日本にくる前に記入した一通の保証書を思い出しました。あらゆる政治活動に参加してはいけないこと、と明記されていたのを今だにはっきり覚えています。
 日本では政治についての定義が非常に細かく、社会団体との論争も政治行為の中に含まれているのです。

 同じく、中国でも口に出せない問題があります。たとえば日本には、水商売についての研究というものがあるようです。(でもそれは水商売を規則化、正当化してしまうのではないかと思うのですが…。)
 他にも水商売を美化する「芸術作品」も、日本にはたくさんあります。でもそういった研究をそのまま中国に持って行ったら、とても
へんてこりんなこと
になってしまうのです。
 女性と余暇
 ある日、私は日本の大学の図書館で
「女と遊びの時代」
という本を探していました。
 最初は、そんな本まで堂々と大学の図書館に入ってるなんて…、と思っていたのです。でも実際に探してみたら、自分が間違っていたことが分かりました。
 そのテーマは、「女と遊び」というふうに理解することも出来るし、「女」と「遊び」というふうに理解しても良いのです。
 もし、「女と遊び」がテーマならば、内容はきっとそれほど上質なものではないでしょう。
 でも、この本は後者をテーマにしていたのです。ですから、自分が著者の真意を誤解したのだと気付くと、なんだか思わず自分を責めたくなってしまいました。
 
 ところで、「女」と「遊び」というテーマは実に難しいテーマです。ふと、著者が
どのような切り口で論じるのか
知りたくなり、1ページ目の序言をめくってみました。
 
 著者は、人々の余暇が増えたため、「遊び」が始まったと述べていました。余暇が増えるにつれて、時間潰しのため、また同時に他人の話のネタにならないように、「遊び」という言葉であらゆる行為が正当化されるようになったというのです。著者は確かに事実をついていると思いました。
 本の中で、1973年に日本の通産省産業構造審議会が実施した「余暇対策」についてのアンケート調査のことを、以下のように取り上げていました。
 
 「これは四半世紀の歳月をかけて、日本の重工業化に明け暮れた人々に人間らしい生活をさせてあげたいという一種の彼らの思いやりであるというより、むしろ'働きすぎな日本人'という全世界においての批判の声を浴びる中で、ひねり出された対策だといったほうが適切だろう。
 もっと正確にいうと、彼らは学者達の知恵を利用して娯楽産業を振興させたがっているのである。このアンケートのために、220名以上の専門家が依頼され、21組もの調査班が設立された。
 余暇とあまり関係のない政治家たちでさえ熱を上げて、サラリーマンでもある専門家たちを自分の休みまで犠牲にさせて、懸命に'余暇とは何か'といった問題について議論させるのは、そもそも滑稽な話である。」

 著者の前置きは、実に見事です。引き続き著者はこう書いています。「'遊び'が現代女性のライフスタイルになり、女性は年齢に関係なく、みんな元気にあふれているという。
 ある水泳教室のオーナーは、'みんなとても元気です。昼間奥様たちが水泳を楽しんでいる間、彼女らのご主人たちは、鼠色のスーツを着て、頭のフケを落としながらも必死に仕事をしていると思ったら、なんだかご主人たちはかわいそうだなと思います'と言っていた。」――

 また「男性の間で流行っている危険な遊びに比べれば、女性の遊びはそれほど悪いものではない。男性の遊びは非常に危険なものまである。
 ギャンブルや女遊び、高利貸しや公金汚職など、はまってしまったら結局家庭の危機まで招いてしまうものばかりである。そこまでいかなくとも、男性たちは、厳しい重労働の後、刺激のあるゲームを好むようである。
 帰宅の電車の中で、男性たちが車内に貼ってあるタレント美女の広告を興味津々に見つめているのを見かけるたび、そう思わずにいられない。
 それに比較してみれば、女性の遊び方は男性のそれよりよほど健康的であると言えよう。女性は軽く遊ぶことでストレス解消し、また再び元の元気に戻るし、周囲の人に迷惑をかけることもあまりない。」――

 ここまで読んで私は、著者がもう自分の
主観的な理屈に陥ってしまった
ことに気付きました。というのは、遊びに夢中になった女性が、深入りして家庭危機にまで至るという事が、必ずしも無いわけではないからです。
 著者の論説はここでもう問題が露呈してしまったので、これ以上を見る必要はないでしょう。著者が、自己のそういった主観的な観点のみを基盤として論述を続けていくのであれば、もう成功した論文とは言えなくなるでしょうね。

 それでも、私はとりあえずこの本を借りることにしました。ふと思いついたのです。「もし中国の、社会学を志す受験生諸君の入試問題に、'女性がなぜ遊ぶのかについて論述せよ'あるいは'風俗産業存在の必要性について論述せよ'といった問題を出したら、みんなどんな顔をするだろう、どんな答えを出すだろう?」―――

 私はその場で思わず、笑いをもらしました。


 

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