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夫婦

作者:温淑華  来源:贯通论坛   更新:2004-7-6 8:10:00  点击:  切换到繁體中文

 

 中国

 羅秀雲さんが日本にきた年、1990年は、日本はちょうど「バブル経済」真っ只中でした。

 羅さんのお父さんは、中国国営企業の中層幹部でした。文化大革命の時代、羅さんの兄弟はみんなまともに学校で勉強することはできませんでした。 
 お兄さんたちは、農村に派遣されたり、兵隊に入ったりした後、ようやく都市部に戻ってくることができたのです。そして彼らは、お父さんが在籍している工場に就職しました。
 
 改革開放時代に入ると、国営工場の職員は時代の移り変わりに伴い、かつての優越感をだんだんと失っていきました。
 まだ開放時代の前のことですが、お兄さんたちの結婚相手は、それぞれ、小工場の職員だったり、集団会社の職員だったり、果ては、農家の女性と結婚したお兄さんもいたのです。
 国営工場の職員なのに、わざわざこういった「鉄飯碗」(安定した職のこと)のない女性と結婚するなんて、とても釣り合わない結婚だと、親は不満に思ったこともありました。
 しかし、時代も変わり、「鉄飯碗」はみんなの憧れでなくなったのです。
 
 国営工場は日々受注が減っていき、結局従業員たちの賃金も出せなくなる始末になってしまいました。その一方で、農家出身の義理の姉は、定職がなかったため、わりと早い時期から個人商売を始めるようになり、どんどん裕福になっていきました。
 お兄さんも、後にきっぱりと仕事をやめ、夫婦二人で一緒に商売をやるようになりました。彼らの生活レベルは急上昇していきました。
 残った二人の義理の姉はそれを見て、仕事をやめて商売をやれと、自分の夫を急き立てる一方でした。
 
 ちょうどそんな時、羅さんは友人の紹介で、現地の某合弁会社の工場の技術指導職を得ました。そこで、彼女は三田さんという日本人男性と出会ったのです。しかも、二人はあっという間に結婚してしまいました。三田さんは、中国での任務を終えると、一人先に日本に戻りました。3ヶ月後、羅さんも日本にやってきました。
 当初、羅さんはまだ日本語が全く出来ませんでしたが、三田さんは、とても頭の良い人なので、中国での半年間の実践生活を通して、中国語の日常会話をたくさん聞き取ることができるようになっていたのです。ですから、この夫婦の間では言語の不便さがあまり見られませんでした。
 
 三田さんの外観はちょっと誉められないのですが、身長160センチ、でっかい頭で、おまけにツルツル、そして丸い鼻とモジャモジャの顔ひげがとても印象的です。
 三田さんはまだ30代ですが、顔にはすでに皺が刻まれています。でも三田さんは心の豊かな人です。彼は女性に対してとても優しく思いやりがありますし、正直者で物事をフェアに扱う人です。 
 彼はほかの日本人男性のようなグズグズする感じがありません。また、彼は外国人に対する偏見を持っていないし、十年あまりが過ぎた現在でも、変わらず羅さんと、その家族にいつも気を配っているのです。
 
 羅さんが日本にきた最初の頃から、三田さんは一度も彼女を外国人として扱ったことがありませんでした。最初の月から、日本の普通の家庭のように、主人である彼は自分の給料をすべて妻の羅さんに渡しました。羅さんは、夫のススメに従い、彼女の「管家婆」(家庭の大蔵大臣のこと)の役割を担い始めました。
 驚いたことに、三田さんの経済状況は、羅さんの思っていたより遥かに良いものでした。彼の年収は700万円ほどあり、ひと月に少なくとも40、50万円の収入を得ていたのです。
 
 しかし彼は、自らの生活管理にちょっと無頓着のようで、安アパートに住み、タバコも吸わない、お酒も少ししか飲まない、それほどお金もいらない、なのに、貯金がまったくなかったのです。一番の問題は、彼は自分のお金がどこへ消えたか、本人でも分からない、ということです。
 ですから、「管家婆」の羅さんが、一番最初に至急やらなければならないことは、この家に毎月の貯金のメドを立てることと、日常の生活費の管理でした。もちろん、もう一つ気を使うべきことは、三田さんの日常の世話ですね。
 
 羅さんが日本にきて1年も経たないころ、三田さんは会社をやめて、お兄さんと一緒に工場を経営することになりました。
 当時、日本経済はやや落ち込む気配を見せていましたが、大企業の下請工場として、この工場はそれほど大きな影響を受けていませんでした。
 工場の利益は、それは大したものでした。お兄さんは、三田さんの変化をしみじみ感じたそうです。三田さんは結婚する前よりかなり明るくなったし、顔もつやつやして、とても成功した男のように見えると言いました。 
 以前は三田さんは、ほとんど外食でしたが、今は羅さんが用意してくれるお弁当を持ってくるのです。特に餃子のときは、必ずお兄さんの分も一緒に入れられています。
 仕事が終わると、以前のようにどこかに飲みに行くことはなくなり、家にまっすぐ帰ります。毎日の服装はきちんとしており、以前のだらしのない三田さんではなくなりました。
 義理のお姉さんたちは、中国人のお嫁さんである羅さんの事を、どうのこうの言うのですが、お兄さんたちは、弟のお嫁さんに感謝の気持ちを抱いているようでした。
 
 翌年、三田さんたちの長女が誕生しました。とてもかわいい子で、名前は「美雪」です。美雪ちゃんが4歳のときに、弟の勇次くんが生まれました。羅さんの日本語は依然それほど大きな進歩は見られませんでしたが、彼女はこの3年間でこの家をがらりと変貌させてしまったのです。
 夫婦二人は、ようやくマイホームを購入する頭金を貯めて、勇次くんの生まれる前に新しい家に引越しすることができたのです。
 このうちに、羅さんのお父さんとお兄さんが日本に遊びにきて、三田さんは言い様もないほど、ご家族を大切にもてなしました。
 羅さんのお兄さんは、日本で働いて少しお金を貯めたいということで、三田さんは彼を友達の工場に紹介しました。しかも三田さんは、お兄さんに将来中国に帰ったら得意技の一つも持てるようにと、仕事の合間に日本語の勉強をすることを勧めていたのです。
 
 通常であれば、三田さんのように勤勉で、かつ勉強熱心の人は、失業などということは有り得ないことです。しかし、運が悪かったのか、彼はこの不景気の時代に、失業という事態に遭遇してしまったのです。
 95年以後、日本の産業空洞化が進行する中、大手メーカーは製造工場をどんどん海外に移転させていき、三田さんとお兄さんが共同で経営していた工場も、仕事がどんどん減っていってしまいました。
 彼らは、できる限りの復興策を考え尽くしたのですが、どこも不景気の空気に包まれていて、結局彼らは工場を維持できなくなってしまいました。21世紀を迎える直前、彼らの工場は閉鎖されたのです
 
 三田さんはこの時もう40代に入っていて、力仕事は彼にとって大変なことではないのですが、ただ以前のように家族を裕福に生活させるだけの給料を払ってくれる仕事を見つけるのは、なかなか難しい事でした。
 三田さんは機械加工の技術を持っているのですが、しかし彼のような技術工は日本中に必要以上にいるわけで、三田さん一家は今後の生活に悩みはじめました。考えた末、羅さんは一つのアイディアを思いつきました。
 中国家庭料理
 彼女は友達と一緒に小さな居酒屋を開くことにしたのです。しかも自信満々で、この居酒屋の収入で今後一家の生活を支えるのだ、と決心したのです。
 三田さんは一切反対しなかったのですが、心の中では密かに心配していました。
 
 羅さんはさっそく友達と一緒に店舗を借りて、少し改装してからすぐに商売を始めました。羅さんの友達も主婦なので、二人は中国の家庭料理をお店の目玉としました。幸い、評判は悪くはありませんでした。
 
 こうして一ヶ月の収入は三田さんの昔の給料とほぼ同じ位になりました。
 羅さんの苦労が少し多いものの、家族のためには彼女は前向きに進んで行くしかありません。
 同時に、三田さんはそんな羅さんに深い理解を示し、進んで家事を多めに引き受けるようにしました。
 
 普通の国際結婚家庭ではあまり見られない調和と暗黙の理解は、この家族に再び難関を乗り越えることを可能にさせたようです。


 

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