「黄長浩が退学した」という噂は、中国青島大学理学院で、一時ちょっとした騒動を起こしたものです。でも僕はわざと変なニュースを作りたかったわけでもないし、自分を有名にしたかったわけでもありません。本当は、その悲しみで一杯のところから少しでも遠く離れたい、というのがそのときの僕の本音だったのです。
退学することは偉いことでもないし、立派なことでもありません。しかし僕はもうそれ以上この大学にはいられないと思ったので、やむを得ず「退学」というもっとも残念な選択をせざるを得なかったのです。
原因は僕が大学に入って間もないころ、ある人と恋に落ちてしまったことでした。恋愛はお互い勉強を励ましあい、はかどらせる効果があるものです。少なくとも普段の勉強には悪い影響を与えないでしょう。しかし僕の場合は、すっかりその恋の虜になってしまって、毎日うっとりと心配が入り混じったような暮らしをして、僕の彼女ほど落ち着きませんでした。
大学一年生の時の授業は、基礎科目が多く、しかもほとんど高校の科目と関連していたので、「吃老本」(昔の手柄の上にあぐらをかく)で、なんとか一年目の単位をぎりぎり手に入れました。しかし二年生になると、不勉強の悪影響がだんだん露呈してきたのです。僕は授業にすら追いつくことができなくなりました。
それでも熱心な先生は僕を励まし助けてくれました。僕も本気に返って頑張りました。しかし期末の結果は、努力も空しく、芳しいものではありませんでした。
そんな切羽詰ったときに、彼女から「別れよう」と言われてしまったのです……。僕は、失恋の痛手から深く反省したのか、それとも僕が弱虫でその失恋の辛さに耐えられなかったのか、結局退学を選んでしまったのです。
その出来事は、自分の人生の中で一歩後ずさったというより、むしろ一歩踏み間違えたといっていい事だったでしょう。
12年間の努力は言うまでもなく、周りの人が自分にどれほど投資してくれたかを考えてみると、まず大まかに国の統計を見ても、一人の学生が生まれてから大学を出るまで、国はおよそ10万元を負担しなければなりません。さらに国の期待、父母の苦心、人生の価値など、お金には変えられないものを考えれば、計算しきれるものではないでしょう。
二年ぶりに故郷の長春に帰ってきた僕の気持ちは、とても口では説明できないくらい複雑なものでした。やむを得ずやってしまったことですから、家族は僕のことをよく理解してくれました。もしその時家族が理解してくれなかったら、僕の人生はどう変わっていたか、僕の歴史が今とはまるで違う方向にいってしまっただろうと、時々僕はそのときのことを思い出してはそう思います。
何ヶ月かの反省のあと、僕は勉強しつづけていくことを決意しました。また大学を受験するか、それとも日本語を習って日本に留学に行くかという選択肢の中で、家族の意見も踏まえて、僕は吉林師範大学日本語予備学校で、自費で日本語を習い始めました。僕は再び立ち直ったのです。
この学校は、中日協力でつくられた新しい外国語学校です。日本製のマルチメディア教育設備が備えられていることが学校の長所の一つといえます。そのほか、ここの日本人の先生はとても勤勉な方々なので、勉強が好きではない学生でもここでは勉強する気になるのです。
僕の身には、あの失恋の歴史が刻まれているので、「知耻而后勇」(恥じることを知ってはじめて一所懸命に努力する)ということなのでしょう、僕は自分の時間と精力とをすべて日本語の勉強に注ぎ込みました。
あの恋が記憶の奥に大事にしまわれて、常に僕を守っているような気がしたものです。日本語予備校で二年ほど苦闘してから、優秀な成績で卒業しました。その年に、僕は合格点を100点近く超える成績で「一級日本語能力試験」に合格したのです。
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そして、長春日本語予備学校の推薦により、僕は順調に就学ビザをもらい、まもなく東京のある日本語学校に入りました。新しい日本語学校で、僕はほかの同窓生より少し気が楽になりました。というのは、僕には大学に受かった経験もあり、長春の学校では優等生だったからです。
東京にきて日本の生活にも少し慣れてきたころ、僕は慶応義塾大学への進学準備に取り掛かりました。でも僕は慢心することなく、ただただひたすらアルバイトをしながら勉強を続けていました。良い大学で勉強したいならば、良い成績のほかに十分な経済的保障も必要だと、僕には分かりきったことだったからです。
大学を出願するとき、僕は散々悩みました。国立大学は学費が低いし、奨学金をもらうチャンスも大きいといわれていますが、東大のような名門大学は外国人に学部をオープンにしていないということもあるし、しかも外国人学生はおろか、日本人学生にとってすら、自分の実力に120%自信を持たないとなかなか思い切って出願することができないものです。
ですから、確実に国立大学に受かりたいのであれば、二流以下の国立大学に出願するしかないのです。でもそうした国立大学はなかなか僕の「失われた恋のためにずっと戦ってきた向上心」を満足させるものではありませんでした。
考えに考えた末、僕は私立の名門大学を目指すことにしました。もちろん私立大学の学費は高いし、奨学金をもらうチャンスも少ないので、これからの大学生活においてずっと苦労しなければならないことはわかっています。しかしまあ、「怕苦不留学、留学不怕苦」(苦を恐れるなら留学はしないほうがよい、留学したうえは苦に負けるな)とよくいわれるではないですか。
僕は日本に来たときもう大学へ進学する資格をもっていたので、来たその年、僕は大学入試を受けることにしました。一回目に失敗してももう一回チャンスがあるからです。
人生とはこういうものです。運がまわってきたときは、その人の前には輝かしい前途が待ちうけており、選択する権利や時間もあるものです。でも運がないときには、自分の勇気を頼りにチャンスを求めて戦っていくしかないのです。
そのときの僕は自信だけを頼りに、あえて慶応大学入試という「一本橋」に踏み込んだのです。もし僕がその一本橋から落ちても、溺れることはまずないと考えてもいました。もし一回目失敗しても、翌年もう一度挑戦すればいいのですから。
ですから僕にとって緊張感はそれほどありませんでした。それはまさに「有賭不算輸、有本銭才賭得起」――賭けさえすれば、負けるとは限らない。元金(実力)があるからこそ、賭ける価値があるという言葉のとおりです。
僕は国内でもうすでに「一級日本語能力試験」に合格したので、希望する大学の条件にしたがってその試験の免除を申し出ることができます。
ですから僕は一級合格証明証と成績表を用意して、大学に日本語能力試験の免除を申請したのです。大学側からその許可が下りれば、文部省の主催する「留学生統一試験」と、翌年二月に行なわれる慶応大学の入学試験をメインにして受験勉強をすればいいからです。
その免除のおかげで僕は高校の基礎科目の復習に集中できたので、受験の準備は順調でした。しかも、統一試験のとき日本語で解答するのにまだ少しなれていなかったことのほかは、特に難問にもあいませんでした。そうして僕は順調に統一試験を済ませました。
慶応大学の入試試験はたんなる形式ではありません。二ヶ月間の準備を終え、僕はやはり少し緊張気味で試験場に入りました。
試験問題は確かに難しいものでした。英語にしろ、小論文にしろ、どちらも僕は時間内ぎりぎりで全部回答を埋めました。
また面接もかなり厳しいものでした。三人の面接官がそれぞれ一つ問題を出したのですが、その30分間はことさら長く感じたものです。時間が止まったか、はたまた周りの空気が凝り固まったのか……そんな気がしたものです。
そうこうしてついに合格発表をむかえ、僕は掲示から自分の受験番号を見つけたのです!やれやれ、僕は今回の賭けに勝ったんだ!