週末の夜10時、僕がテレビで洋画を見ていたところに、電話のベルが鳴りました。出てみると、電話の向こうから聞こえてくるのは、友達の趙さんのイライラした声。
「両親が6時くらいに晩ご飯を食べ終わってから、外へ散歩に行くと出かけて行ったが、今だに帰ってこないんだ。俺の日本語はダメだし、まして家内はなおさらなので、警察に助けを求めたくても出来ないんだよ。君、助けてもらえるかな?」という頼みの電話でした。
趙さんの話を聞いて、僕はすぐ「いいよ。今すぐそっちへ行く。」と応じました。僕は受話器を置いて直ちに自転車に乗り、趙さんの家へ向かったのです。僕の家から趙さんの家までは一つの番地を挟む距離しかありません。
以前、北京で趙さんと一回会ったことがありますが、日本にきて同じ都市に住んでいるとは思ってもみませんでした。これこそご縁というものでしょうか?お互い自然に親しくなりました。
趙さんは北京から招かれてきた国家一級料理師なのです。日本に来てすでに3年も経ちましたが、年もそこそこ取っており、加えて料理するだけで別にしゃべる必要もないので、今だに日本語で丸々一つの文章をしゃべることができません。
先日、趙さんのご両親が中国から息子に会いにくるというので、僕もお迎えに同行しました。それからまだ何日も経っていないのに、もうご両親と離れてしまうなんて…。
僕はそう思いながら、足にさらに力をいれて、自転車のスピードを上げました。まもなく遠くに趙さん夫婦が見えてきました。彼らはアパートの入り口で、とてもイライラしている様子でした。
50歳近くなる趙さんは、僕が来たのに気づいたようで、彼のその時の表情はまるで、かつて人々が「他老人家」にお目にかかったような表情(「他老人家」とは、故毛沢東さんに対する尊称です。昔彼は中国人にとって救い主のような存在でした。ここではその「救世主」的意味を強調するためにこの言葉を使いました。)でした。
「女房がいけないんだよ。父ちゃんと母ちゃんが出かけるときは必ず携帯を持たせるようにって言ったのに。父ちゃんがいらないって言ったもんだから、馬鹿正直に携帯を渡さなかったんだよ。それでこんな大変なことになっちゃったんだよ。」と、趙さんは奥さんを責めるばかりでした。
隣の奥さんはすでに涙ぼろぼろ状態で、「あなたのお父さんだから、私がうるさく言ってはいけないんじゃないの。それに私が一緒に行くと言っても、道が分かるからってお父さんに断られちゃったのよ。なんで私ばかり責めるの?」と、無念の気持ちで一杯なようです。
確かにこうなってしまったら、二人とも苛立つでしょうね。成す術がないときては、お互いに相手を責めるばかりです。
僕が、救い主と見なされた以上は、彼らと同じように僕が混乱してはいけません。
「まず、僕が一番近い交番に助けを求めに行ってきます。お二人はとりあえず引き続きご両親を探してください。何か連絡があったら趙さんの携帯に連絡しますから。」と言って、僕は直ちにに最寄りの交番へ向かいました。
普段仕事があまりなく、毎日制服をきて自転車であちこちの町を走りまくっている警察官のお兄さんたちも、いざ本番の仕事をし始めれば、かなり真剣になります。
交番で僕はまず一枚の用紙に、事件の起こった時間や内容などの必要事項を記述し、事件の経緯を詳しく述べました。例えばご両親が家を出たときの時間、彼らの体格的特徴、年齢、それから着ている服の色や形などです。細かいところになると、僕も分からないので、さっそく奥さんを呼んできました。
彼女は一字一句詳細に僕に中国語で話し、僕がそれを全部日本語に翻訳し、警察側に伝えたのです。そうこうしてようやく、僕は自分の恥ずかしい日本語で通訳の仕事を終えました。
すると警察官のお兄さんは、映画によくあるシーンのように、肩に装備しているトランシーバーに向かって流暢かつ的確に事件の内容を説明したのです。
その後、彼はさっさと僕らの口述を記録して、サインをもらってから、「じゃ、帰ってもいいですよ。何か情報があったらすぐお知らせします。」といったのです。
隣の奥さんは警察官の言葉を聞いて、かえって落ちつかなくなってしまいました。「ここに彼(警察のこと)一人しかいなくて、いったい誰が私たちの人探しを手伝ってくれるの?そのオンボロ機械に一言いうだけで問題を解決したとでもいう気なの?」と、奥さんは言いました。
実際、僕も警察官のお兄さんのトランシーバーがどれ程の問題解決パワーを持っているか分りませんでした。でも帰って結果待ちだと言われたからには、正直者の奥さんを連れて帰るしかないのです。
交番から出るとき、僕は忘れずに警察官のお兄さんにお礼を言いました。でも交番を出た後、やはり警察パワーは半信半疑なので、奥さんと相談して、僕が左、奥さんが右に分かれて自力で探すことにしました。
夜11時、僕ら三人の間でやりとりされた電話の数はもう十数回以上になりました。しかも三人とも1時間近く走り回ったのです。僕らは偵察員のように細かい隅まで探しまくり、僕も疲労が限界に差し掛かったところでした。
でもそれでもご両親の姿を見つけることはできませんでした。「僕ら三人のルートから見ても、お年寄りの二人がこんな遠くまで来られるはずもないのに…。しかも隅々まですべて探したから、見つからない訳がないのにな……。」と僕が考えている途中、携帯電話のベルが鳴りました。
きっと趙さんからの電話だろう、もしかして見つかったのかな?と思いながら、電話に出ました。しかし思いがけず、電話の向こうからは日本語が流れてきたので、慌てて日本語で応答しました。
電話は警察からでした。警察からの話を聞いて、僕は「万歳!」と言いたいほど大喜びしました。
その時の気持ちは、まるでこれまで消息不明だった自分の両親を見つけたように興奮し、まるで日本人に変身したかのように、電話に向けて繰り返しお礼を言いながら、思わずお辞儀までもしてしまいました。
電話を切った後すぐ、趙さんの携帯に電話を入れました。「趙さん、今警察から電話があったよ!二人の年配の方を見つけたけど、趙さんのご両親であるかどうか分らないので、僕らの確認が必要だと言われた。駅にある交番だ!」と、僕は一気に言いました。
趙さんの方も、「そうそう、俺も今日本人からの電話を受けた。でも聞き取れなくて…。たぶん今君の言ってる内容と同じことだったと思う。俺、今から駅に行くよ!」と言いました。
駅へ向かう途中、僕の先ほどの疲れは、どこかへふっ飛んでしまったかのようでした。気持ち的にだいぶほっとしたからだと思います。
見つかったというその二人は、きっと趙さんのご両親に違いないと僕は確信しました。だって、深夜の街をぶらつく日本語の出来ない老夫婦なんて、よく見かける訳がありませんもの。
駅までの距離は僕が一番近かったので、一番先に駅に着くだろうと思っていましたが、駅に着いてみたら、なんと趙さんの自転車があってすでに彼がそこに立っていたのです。さすが!自分の親ともなると違いますね。
駅の交番はあまり広くなく、テーブル二つ分の面積しかありません。外から見ただけでも、中で警察官のお兄さんが一人テーブルの奥に座っているのが見えました。
彼の向かい側に二人のお年寄りが座っていました。趙さんはその二人の後ろ姿を一目見るなり、「僕の親だ!」とまっすぐ交番に入っていったのです。
趙さんはそこにいる警察官に挨拶することも忘れ、ご両親のことばかり見つめていました。次に交番に入った僕が彼に代わって、警察官のお兄さんに何度もお礼を言いました。
警察官のお兄さんも「これが警察の仕事ですから。」と謙虚に言い、引き出しから一枚の書類を取り出しました。この書類は以前僕が記述した用紙とほぼ同じものです。ただ違うのは内容の欄に「事件解決」という文字が入っている点です。
今回の手続きはとても簡単で、殆どの部分は僕らがくる前に、警察お兄さんが代わりに書き入れてくれていました。僕らはサインをするだけで済むものでした。
趙さんはサインをしてから、警察官のお兄さんに向かってしっかりとお辞儀をしました。僕ら四人が交番を出た時、ちょうど奥さんが駅に着いたところでした。ご両親と再会した奥さんは、言葉より先に涙を流しました。
こうして僕の任務も、無事完了したのでした。
後日、趙さんと再びその日のことを話す機会がありました。その日ご両親は携帯電話は持っていませんでしたが、テレホンカードを持っていたことが分りました。しかし、ご両親はテレホンカードの差込方向を間違っていたらしくて、電話をかけることができなかったのです。
結局、連絡ができなかったので、ご両親は人の多いところに行くことにしたのです。彼らは駅までたどり着き、そこで翌朝息子が出勤するとき必ずこの駅を通るから、その時まで待とうということで、駅で一夜を過ごすことにしたらしいのです。
最後に趙さんは「親を日本に呼び寄せて、楽な生活をさせるあげるつもりだったけど、結局間違ってしまった。両親はここのテレビの内容も分からないし、外に出かけようとしても、道も分らない。さらにしゃべる相手もいないから、もうここに住むのはイヤだと言っている。この二、三日は中国に帰ろうと僕を急き立てている……。」と言ってます。これには考えさせられます。
ところで、今回の件で僕らが感動したことは親子の絆だけではありません。日本の警察は普段何もすることのないようにブラブラしていますけど、いざとなるとそのパワーはさすがに強いようです。これはスゴイことですよね!