98年の秋、僕はようやく日本側の就学ビザと日本語学校の入学通知を取得しました。
さっそく猛スピードで飛行機の切符を買って、沈陽から大連を経由し、そして日本の東京へ向けて飛び立ちました。
しかし、飛行機の出発が天気の影響で3時間も遅れてしまったので、東京についたときはもう夜の11時を過ぎていました。
でもそのおかげで、航空会社は乗客たちに無料で宿泊ホテルと夕食とを提供してくれたのです。
ですから、この日本に知人もない頼る人もない、さらに迎えに来る人すらいない「流浪者」の僕は、危うく「馬路天使」(家を持たないで道端で寝る人)になることから逃れることができたのです。
翌朝、僕は京成線に乗って、一気に上野駅にきてしまいました。駅から出て、目の前を見上げると、ビル群がドーンと軒並み建てられ、そして眩暈がするほどのネオンと車の流れ、雑然とした人ごみ……。それらを見た僕は一瞬呆然と立ち尽くしてしまったのです。
困難ってなあに?とそれまで全く知ることのなかった僕は、初めて「途方にくれる」ということを身をもって知ったのです。
坂橋区の日本語学校までどのように行ったらいいのでしょうか?今日は、学校の登録の最終日ですから、急がなくっちゃ……。そう思った僕は地図を取り出しました。
地図は坂橋区加賀地区周辺の地図ですが、まだ日本の地図を読めない僕は、東西南北さえ判断できませんでした。東京はとても広く、しかも23区もあると聞いていますから、少しでも油断したらまるきり正反対の方向に行ってしまいかねません。
人に聞きたいのはやまやまですが、あいにく僕の日本語は来日する1ヶ月前から習ったばかりの程度なので、いまだに五十音図すらしっかり覚えておらず、とうてい道を聞くどころではありません。
入学通知書は日本語で書かれているから、それを人に見せたらどうだろう、と思いついた僕は、「ちょっと、すみませんが……。」と、ある通行人に尋ねてみました。
僕はそれまで「すみません」という言葉を何回も練習してきたので、せめてそれだけは相手に分かって欲しい!と思っていました。
僕の発音が合っていたのか、それとも僕の地図と入学通知書が役に立ったのかは分かりませんが、とにかく相手は僕の言っている意味を分かってくれたようです。彼は僕を近くの地下鉄に連れて行ってくれました。
僕はそこであちこち切符売り場を探しまくったのですが、見つかりません。周りで行き来したりする人ごみはみんな急いでいるようでしたから、しばらく立ち尽くして見ていると、ふと自動券売機のようなものを見つけました。
その上には、各駅が表示されている路線図がありました。しかし、自動券売機をみつけても僕はどのように切符を買ったらいいのか、どこまでの切符を買うべきなのか、さっぱり分かりませんでした。
そのときの僕はまるで「劉姥姥初進大観園」(ドラマ「紅夢楼」のシーン)の田舎者の劉姥姥のようでした。でも、僕はたぶん劉姥姥にも及びません。というのも、劉姥姥は少なくとも大観園に入ることができましたが、僕は改札の中に入ることすら出来なかったからです。やっぱり劉姥姥は僕より賢いですね。
「窮すれば通ず」といわれる通り、困っていた僕はタクシーに乗る手を思いつきました。国にいたとき、北京や上海等の大都会で道に迷ったときは、さっさとタクシーを拾ったことがよくあったじゃないですか。
たまにタクシー運転手は少し回り道をしてお金を多少多めに取ろうとした人もいたのですが、でも結果としては僕の行きたいところまでちゃんと送ってくれたのです。日本にきたとはいえ、こんな時までタクシーのことを思いつかなかった僕は、思わず「バカだな!」と呟いたのです。
まもなく僕は順調にタクシーに乗ることが出来ました。タクシー運転手は僕の出した地図と通知書を見てから「OK」と一言いい、車は出発しました。途中でいくつかの赤信号にあっただけで、交通渋滞にはあいませんでした。
僕は大都会の風景を楽しむ余裕もなく、ずっと車内の料金メーターを見つめていました。それはまもなく千円になり、「大丈夫、成田から東京までの電車に乗るにも千円かかったし。」と気にしなかった僕…。
また数字は2千円になり、「まあまあ、まだ大丈夫…。」と自分を慰める僕。やがて料金メーターの数字は3千円になり、「ちょっと痛いな!国にいたとしたら、それは‘下崗工’(首になったわけではないが、会社から最低限の給料をもらっている失業者のこと)の一、二ヶ月の生活費に相当するよ!」とかなり痛みを感じた僕でした。
次の赤信号のところで僕は運転手さんに地図のどの辺まで走り続けるのですかと、ジェスチャーで尋ねてみました。そして、彼は地図の上で大きな大きな輪をかいたのです。
車は走りつづけました。4千、5千円……、ああ、もうそれ以上は払えない!僕は「STOP!」と叫びました。びっくりした運転手さんは、急ブレーキをかけてしまったので、地面には何メートルもの黒い跡が残されました。タクシー代を払った僕は、負け犬のようにタクシーから逃げ出しました。
僕は地図と通知書を握り締めながら、再び通行人に尋ねました。「ちょっとすみません…」、僕はなんだか前より自信がついたようでした。今度は地図が役に立ったようです。バイクに乗る日本人男性は地図を指したりまた道を指したりして、ジェスチャーと言葉を駆使して、とても丁寧に教えてくれました。
でも実をいうと、僕には彼の言葉がぜんぜんわからなかったのです。でもせっかくの好意なので、僕は分かったふりをして英語で「Thank you!」と御礼を言いました。
するとちょうどそこに自転車屋さんがあることに気づき、近くまで行って値段をみると、1万3千円くらいの自転車が売っていました。5千円もかかって目的地につかないタクシーより、1万3千円の自転車を買うほうが得なような感じ…。
まして自転車は自分の「十一号」(両足のこと)より時間も力も省エネです。また今買っとけばこれからも使えるしね。そう思った僕は即座にその自転車を買うことに決めました。
「やっぱり一人はいいね。誰に断る必要もないし、何でも自分で決められるからさ!」
でもお金を支払ったとき、また自転車屋さんに千円も余分に取られちゃったので(5%の消費税と防犯登録費)、「なんだこいつ、外国人の僕をいじめるなんて!」と心の中でプンプン怒りました。
店員さんは何か僕にしゃべったようでしたが、不満たらたらの僕は彼を無視しました。僕は言われた方向に向かってしばらく自転車に乗りましたが、自転車の具合がちょっと変だなと思い、降りてみると、空気が入っていないことが分かったのです。仕方なく、また店に後戻りしました。さっきの店員は僕の戻るのを待っていたようです。
再び自転車に乗りました。「さっきは自転車にいじめられた僕も、いまは自転車に乗ってるんだぞ!」とずっと緊張気味だった僕はつい自分のことを笑ってしまいました。「たかが東京、街一つだろう。恐れるもんか!」と、東北人の僕に元の豪気が再び戻ってきました。
丁字路に行き当たり、また迷い始めた僕は地図を取り出していたところに、先ほど道を教えてくれたあのバイクの日本人男性が後から追いかけてきました。彼は自分のあとについていくように指示してくれたのです。
彼はバイクのスピードを落として、僕を連れて行ってくれました。最初彼の行動に少し戸惑った僕でしたが、だんだん彼の行動に含まれた情熱と好意を感じ取ったのです。
40分後、彼は目的地に着いたよと指で示してから、またもとの道に沿って走って行きました。彼は僕に感謝の意を表す時間をくれないまま、街に戻って行ったのです。いい人ですね!
学校に着いたときは午前11時過ぎでした。入学手続きを済ませてから、事務員は僕を教室まで案内してくれました。中に入ると、そこにはもうすでに30名あまりの留学生がいて、みんな大体黄色い肌と黒髪の中国人、韓国人でした。
担任の先生に遅刻した理由を言いたかったのですが、なかなか言葉が出てきません。ちょうど、中に日本語を多少話せる学生がいて、彼は中国語で僕に事情を聞きました。
そして、彼はあまり流暢ではない日本語で先生に説明してくれたのです。先生は僕の「旅」に興味をもったのか、もしくはもともと優しい先生だったのか分かりませんが、話を聞いた彼は「大丈夫。」といってくれました。
さらに彼は黒板に大きな字で「大丈夫」と書きました。僕は先生の言葉は分からなかったけれど、先生の今書いた漢字を読むことは出来ます。しかし意味がちょっと……。やっぱり分からないな……。
僕はあの通訳さんに聞きました。「大丈夫是何意思?」(大丈夫って何ですか?)と。僕の声はそれほど大きくはなかったのですが、教室のみなさんには聞こえたようで、とくに中国の同胞たちは笑いを抑えきれなくて、みんなどっと笑い出しました。