先日、周玲はテレビでとある番組を見ていました。内容は「児童いじめ防止SOSセンター」の相談員が、子供からの電話相談を受けて、対策を考え提示するというものでした。
テレビの視聴率を上げるためか、それともSOSセンターを宣伝するためか分かりませんが、番組はなんとなく不自然さを感じさせるものでした。
たとえば、ある女の子は、母親が自分に年齢を隠していたという理由で自分の母を訴えようとしていました。
また、キャッチボールの相手をしてくれない父親を訴える男の子もいました。最も多い事例は、自分のわがままを許してくれない親を訴えるというものでした。
微笑みながら子供達の質問に丁寧に答えている相談員たちの姿を見て、とても子供の役に立つ番組であるとは周玲には思えませんでした。逆にちょっとした茶番劇のように見えてしまったほどです。
周玲は自分のイタズラ好きの息子にこの番組を見せてなくてよかったと、密かにほっとしました。もし、あの子に見せようものなら、きっと大喜びしてこのSOSの電話番号を武器に、自分の父親を威嚇するだろうと思ったからです。
息子といえば――。周玲は息子のことを思い出し、思わず笑みをこぼしました。彼は日本で生まれた子供で、今年小学四年生になりました。彼は中国語がとても苦手で、そのことでいつも父親の怒りを買っています。ときどき、お尻を叩かれることもあります。
父親は息子をとても可愛がっているのですが、彼はあまりにもヤンチャな子で、しかも父親は「不打不成材、棍棒出孝子」(子供は叩かれてはじめてちゃんとした人材、孝行な子になるという意味)を信じる人なので、息子を叩くことも少なくありませんでした。
ですから息子は父親に会うと、いつもネズミが猫に出くわしたかのような様子になります。父親が目を丸くするだけで、息子はただちにおとなしくなってしまうのです。
周玲にとって、小学生の息子を連れた一昨年のアメリカ旅行は、まだ記憶に新しい出来事です。周玲の旦那さんの性格をよく知っている友達は、一家が旅行に出る前、「アメリカでは息子さんに絶対に手を出さないでね。でないと、すぐ捕まっちゃうわよ!」と、旦那さんに冗談半分で警告しました。
周玲一家がアメリカに着いたとき、迎えに来ていた友達が、大声で息子を叱っている旦那さんの姿をちょうど目にしてしまいました。友達は旦那さんに注意しました。しかも子供の前で、です。
その様子を見た周玲の息子は、急につけあがるようになりました。町で自分の父親の太腿に触りながら、「お父さん、僕を殴って。殴ってみて!」と挑発的に言うことも何度もありました。父親はいたずらっ子の息子に、もうお手上げ状態でした。
またたく間に10日間のアメリカ旅行が終わり、日本に帰ってきた息子は、周玲に言いました。「お母さん、やっぱりアメリカの方がいいね。アメリカだったら、父さんは僕を殴れないんだから!」
それだけではなく、帰国後一週間が経ったころ、思いもよらないことが起きてしまったのです。その日、息子はいつものようにテレビを見たり、マンガを読んだりして、なかなか中国語の本に手をつけたがりませんでした。
最初のうち、父親はまだ優しく息子を説得していたのですが、とうとう彼は怒りを抑えきれなくなって、実力行使をしようとしたのです。
その時、息子は突然大きな声で、「僕を殴らないで!僕にはSOSカードがあるんだよ!僕は父さんを訴えることができるんだ。今、僕は虐待されようとしているんだ!」と言い出したのです。
息子の言葉を聞いた父親は、「カードって何だそれ?お前に勉強しろと言ったのに勉強しないから、父さんが殴ってやるんだ。」とさらに頭にきてしまったようでした。
息子は一目散に自分の部屋に駆け込みました。父親は息子もこれで圧倒されただろうと思っていました。しかしまもなく息子は部屋から走り出てきたのです。
彼の手にはカードらしきものがありました。そのカードを高くあげて、彼は父親に言いました。「もし今度僕を殴ったら、訴えてやるから!」――。それを聞いた父親は、再び息子を叩こうとしました。
そのとき傍にいた周玲は、「息子を殴らないで!ちゃんと話をしてあげて。」と彼を止めました。その隙をみて、息子は周玲の後ろに隠れて、父親の一撃を逃れたのです。
なすすべもない父親は、「君がいつもこの子を甘やかしているせいだ!」と憤慨して言いました。周玲は旦那さんの言葉を無視して息子を連れて部屋の中へ入っていきました。
「どんなカードをもらったの?母さんに見せて。」と、周玲は息子からさっきのカードを受け取りました。このカードは一見するとテレホンカードのように見えます。
しかし上には、「子供にも権利がある!もしあなたの両親あるいは他人からいじめや虐待を受けたり、いやなことをさせられたりした場合は、この電話をかけてください。×××-××××。あなたの秘密を守ります。」という内容が書かれています。
周玲はこのカードを、前に見たあの番組と同じく茶番のようなものだと思い、それ以上深く考えようとはしませんでした。しかし、息子はとても真剣な顔で周玲に聞いたのです。
「母さん、父さんはいつも僕の好きじゃないことをさせようとするから、僕はここに電話をしてもいい?」
「○ちゃん自身はどう思うの?お父さんは○ちゃんに中国語を勉強してほしいだけなのよ。もし中国に帰ったとき、○ちゃんが中国語ができなくて困ったらどうする?お父さんがうるさく言うのは○ちゃんのためなのよ。お父さんが間違っていると思う?」
「でも、僕は字を書きたくないんだもん。」
「字を書きたくないって、それはいい子の言うことなの?」周玲は息子に聞いたのです。
息子はしばらく黙っていました。周玲はむっつりとなった息子に、「もし○ちゃんが電話をして、お父さんが本当に警察に連れていかれてしまったら、どうする?お父さんを本当に離れた所へ行かせたいと思っているの?」
「いやだ。やっぱり電話はしないほうがいいと思うけど…。」と、息子は言いました。
周玲はこうしてSOS事件を何とか終わらせたと思っていました。しかし、彼女が息子の小学校の父兄懇談会に参加した時、周玲は息子のクラスメート全員がSOSカードを持っていることを知ったのです。
子供達の中には間違ったことをして親に叱られることを虐待と誤解してしまう子供もいて、すでに児童センターに電話をしたことのある子供もいるそうです。それで前述の事件のような誤解も出てきたようです。
子供はまだ是非を見分ける能力が十分備わっていません。そのため似たような誤解が発生しているのです。今回の懇談会の目的は、親が子供に、SOSについての正しい認識を導くように、ということにありました。
周玲はまた先日見たテレビ番組を思い出しました。あの番組を見ただけでは、子供はもちろん、大人の自分でもSOSの本意をつかむことが出来なかったと、周玲は強く思いました。番組のあのような演出の仕方は、子供達に勘違いさせてしまうことにつながる、むしろ子供達が勘違いしてしまうのも無理のない話だ、と。
家に戻ってから、さっそく周玲はネット検索をかけて、「児童虐待防止SOS」について詳しく調べはじめました。いろいろな資料から彼女はようやくSOSの本意を理解するようになりました。
日本経済の長引く不況によって、多くの家庭では経済的のみならず精神的にも大きな圧力がかかってしまうようになりました。その圧力が原因で、家庭内の児童虐待事件は年々その数が増えています。虐待によって子供の命が奪われてしまう事件もしばしば起きているのです。
そういった社会現象に対して、日本政府はSOS団体を設立するようになりました。これらの団体は、政府によって設立されたものもあれば、民間によって設立されたものもあります。
町でもたまに「子供SOS」などの文字を見かけることがあります。これらの団体の相談対象は子供に限らず、大人もその対象に入っています。
相談内容は様々なようです。たとえば、親からは子育ての悩み相談とか、虐待を発見したがどうしたら良いか、などなど。さらに虐待された子供が直接電話してくることもあるようです。
以前見かけた報道記事では、いくつかの統計数字を列挙していました。中には、京都市役所が開設したSOS24時間受付専用電話が受け付けた毎月の相談件数は、去年より平均30%も増加したというものもありました。
これらのことを見た周玲は、そばにいる旦那さんに「これからはあまりあの子を叩かないでね。いつ訴えられるかも知れないから…。」と心配そうに言いました。
しかし、旦那さんは「俺の子がそんな無茶なことをするわけがない。」と自信満々に言いました。しかし、しばらく考えてから、「でも、時々あの子にSOSのことを教えてあげてよ。俺が本当に虐待しているとあの子に思われたら…。」と付け加えました。