私は体が弱いので、よく近所のとある病院に通っています。それはある日のことでした。私がその病院の診察室の前で順番を待っていたとき、50歳前後の女性が、向こうから歩いてきたのです。
するとその人は「お久しぶりね。」と進んで挨拶をしてくれたのです。私は、どうも彼女に会った覚えがなかったのですが、でも失礼する訳にもいかないから、彼女と挨拶を交わしました。
日本の病院は、医者と患者の関係が、企業とお得意様との関係に似ていて、つまり相手が常にわりと決まっているものなのです。
同じ時間帯に同じ医者を尋ねてくる患者は、自然にお互いの苦境を分かち合える、親しみやすい「病友」になるのです。
ですから、その女性が長いベンチに腰をかけると間もなく、もう二人の女性の「病友」がやってきて、みんなですぐにおしゃべりを開始しました。
長い間ずっと抑えてきたのか、それとも一種の職業病なのか、先にきた女性は一度喋りだすと、周りを気にすることなくずっと喋りっぱなしで、瞬く間にみんな彼女のおしゃべりに引き込まれてしまったのです。
彼女は、まず自分の息子のことを取り上げ、また自分の身の上話までしゃべりだしました。彼女の話によれば、一回目の結婚は、息子を一人生んでから一年も経たずに終止符を打ってしまったのですが、その後、まもなく再婚したそうです。再婚して、もう一人の子供を産んだのです。
ご主人は彼女より年下で、来年定年退職になるそうです。「彼が定年になったら、すぐ彼と離婚するわ。」と彼女は言いました。
その理由は、彼女が言わなくてもみんな分かります。ご主人が退職したら、きっと相当の金額の退職金をもらうに違いありません。もしその時にご主人と離婚したら、彼女はもらえる財産が今もらうより多いのでしょう。
でも、私たちはやはり彼女にその理由をきいてみました。すると何とご主人が麻薬常習者だというではありませんか。麻薬といっても、コカインまではいかないそうですが、でもやはり人に与える害が大きいものです。
彼女が子供を産んで間もなく、ご主人は会社で安定した地位を手に入れたそうです。しかしその頃から、ご主人が帰宅した時、いつも意識が朦朧としていたというのです。
ご主人はいつも酔っ払って帰ってきていたので、最初彼女はその本当の原因を知るよしもありませんでした。でも、ある日ご主人が異常に酔っていたので、彼女はすごく心配になって、とうとう救急車を呼んで、ご主人を病院まで連れて行ったのです。
するとその日の血液検査によって、ご主人の血液から大量の覚醒剤が検出されてしまったのです。ということはつまり、ご主人はいつもお酒で自分が薬物を吸うことをごまかそうとしていた訳です。
ご主人が麻薬を吸い始めて以来、彼女との性生活は、完全に途絶えてしまいました。そうこうしているうちに、20年余りが過ぎ去ってしまったというのです。彼女の話によると、彼が自ら薬物を選んだのだから、薬物だけを彼の老後人生に伴えばいいということでした。
また、離婚してからの生活費はどうするのかと聞かれた彼女は、今自分はスナック経営しているから大丈夫だと自信満々に答えました。
しかもスナックの仕事があるからこそ、今の生活が楽しくなったのだと、彼女は付け加えました。
実は彼女は昔、姑と一緒に生活していたそうです。しかし、数年前に彼女は体調を急に崩し、5人家族の家事一切を引き受けるのに疲れを感じ始めたのです。
それでもご主人と姑は、ちっとも彼女を手伝ってあげないうえに、彼女の苦境を理解しようともしなかったそうです。彼女は毎日死にそうになりながらも働き続けていたのですが、家事はやってもやっても終わらない、という感じだったそうです。結局医者に、このままでは危ないから入院するように勧められたのです。
彼女が入院してからも、ご主人と姑は一度も見舞いに来ることはありませんでした。結局息子さんがお見舞いに来た時に、彼から、彼女が入院してしまい家の厄介事がいやだから、姑が分家をしたいと言っている、ということを聞いたのです。
その後、彼女は病状も少しずつ良くなり、ついに今のスナックを経営するようになったということです。長い間ずっと我慢してきたが、今はやっと生活の楽しさを味わうことができるようになったと、彼女はそう感慨深げにもらしました。
また彼女は、自分が離婚することをすでに決めており、二人の子供も支持してくれるというので、自分にはもう何も気がかりはないのだ、というふうに話してくれました。
私は、彼女の物語を聞きながら、また彼女の晴れやかな笑顔を見て、そんな目に合ってきた人だとは思いも寄らなかったなと、つい感心してしまいました。
彼女の話は続きました。彼女は、今度は自分の姑のことを話し始めたのです。「主人と結婚した時、姑はずっと涙を流していたのよ。」と、彼女は言いました。
すると隣の二人の「病友」は、すぐ反応をして、しかも口を揃えて言いました。「きっと、彼女は息子を奪われると心配していたんでしょうね!」
「私もそう思ったわ。結婚してからも、あの親子関係はすごく親しかった。息子が帰ってくると、家事なんか何もしなくていい、水虫の薬を塗るのも、お母さんにやってもらうことになってたのよ。ある日の深夜、ふと目が覚めて見ると、誰かこそこそ私の足に薬を塗っていることに気づいたの。それはなんとうちの姑だったのよ……!」
ここまで聞いた私は、思わず真っ暗な中で、幽霊のようなおばあさんが自分の足をこそこそ撫でていることを想像して、急に鳥肌が立つほど寒気がしたのです。
もうこれ以上は聞いていられないと思い、言い訳をしながら、その場から逃げてしまいました。30分後に私が戻ると、私の服と鞄がそこに置いてある他に、ベンチには誰もいませんでした。
それでも、ベンチを見たとたん、またあの顔の見えないおばあさんの姿と真っ暗の風景が、頭の中に浮かんできたのです。
その時ちょうど診察室から看護婦さんが現れ、「××さん、あなたの番です。」と言ってくれたのです。私はその悪夢から逃げ出そうとするかのように、慌てて服と鞄をもって診察室に飛び込んで行ったのでした。