米山さんは青森県の某歯科大学を優秀な成績で卒業し、その後歯科医師として東京文京区にある歯科医院に勤め始めました。彼女はまた、実家の青森に予約制の歯科クリニックを開いているので、大変忙しく、毎週車で東京と青森の間を行き来しています。
器用であるということは、女性に特有な取り柄であると言えるでしょう。それに加え、米山さんは、頭がよく勉強にも精を出しているので、患者の間でもとても人気があるようです。
もちろんその人気は、彼女に相当の収入をもたらしてくれます。ですから、米山さんのお金の使い方ときたら、現代の若者を象徴するようなもので、また流行の最先端を行くものでもあるようです。
米山さんは、自分の貯金を殆ど旅行に使っています。この短い四、五年の間にも、欧米諸国を数多く訪れました。もちろん中国もです。
僕は、まだ東京で留学中だった時、米山さんのいる病院でバイトをしたことがありました。それをきっかけにこの趣味の広い日本女性と知り合ったのです。
夜7時に仕事が終わると、彼女はよく僕と世間話をしました。その話から、三年前の中国の旅が彼女にとって、とても印象深いものだったということが分かったのです。
彼女は、97年に自分で撮影した中国の敦煌のビデオを、興味津々に僕に見せてくれたことがありました。小柄な彼女が、小山のような駱駝の上に乗っかっている姿をみて、僕は笑いをこらえることが出来ませんでした。
そのビデオを見た後、中国に生まれ中国で育った僕ですら、敦煌になんて行ったこともないし、駱駝に乗ったこともないと、正直に感想を聞かせたのです。
その言葉を聞いた彼女は、意外なことに少しも驚きませんでした。「中国はとても広いし、中国の人もあまり旅行が好きでないようだから、別に驚くことはないですよ。
まして日本はこんなに狭い島国なのに、今まで私が一度も行ったことのない場所もたくさんあるんですよ。
たとえば、この間あなたが行った沖縄は、私はまだ行ったことがないの。それに、あなたの国にたった一回行っただけの私は、見た所もほんのわずかでしょ。もし機会があれば、また行きたいわ。中国の変化はとても大きく、日々変わりつつあるくらいだし。そうでしょ?」と、とても人の心をよく理解してくれる米山さんでした。
こんな暖かい人に少しでも何かしてあげたいなと思った僕は、つい「そのうち国に帰るので、もし米山さんもよかったら中国にきませんか。僕が案内しますから。」と、いってしまったのです。
僕は、本当はまだまだ先のことだろうと思い込んでいたのですが、米山さんは思いのほか、すぐ僕の誘いに返事をくれたのです。その年のゴールデンウィークに中国に行きたいという返事でした。「ちょうどいいですね。そのとき僕はちょうど国にいますから。」と、とても嬉しく思った僕でした。
さっそく僕らは中国旅行のスケジュールに取りかかりました。僕は江蘇省の人間なので、江蘇や浙江一帯に詳しいのです。
彼女はそんな僕に合わせて、今回の旅行先を上海、杭州、蘇州、南京などにしました。最後に北京に二日ほど泊まる予定を入れただけです。これはまさに「南征北戦」(あちこち転々として戦いに赴くという意味)とも言うべき行程でしょう。
米山さんはてきぱきした女性なので、何日もしないうちに、もう何人かの同じ病院の同僚を中国旅行に誘いました。それはナースの辰已さんと秘書の緑川さんです。米山さんを入れてちょうど「三姉妹、黄金週間に中国へ行く!」ということになりますね。
まだ3月のことで、ゴールデンウィークまでまだ1ヶ月くらい間があるのに、切符を予約に行った米山さんは、中国行きの切符はもう売れ切れと言われてしまいました。しまった!それではせっかく我々が計画した旅行スケジュールが、水の泡になってしまう!「この旅行は来年になるだろうなあ。」と僕は密かに思いました。
しかし、今度もまた僕の思い込みでした。米山さんらは相談した結果、旅行の出発日を5月28日に延期しただけだったのです。僕は彼女ら三人の、目的を達するまで決してあきらめない根性というものを、ひしひしと感じました。
そうして僕は、さっそく三人のお嬢さんのために、スケジュールを変更しました。たった4日間の旅になってしまったので、北京は取りやめざるを得ませんでした。「南征北戦」は「孔雀東南飛」(映画の題名)になってしまいましたけどね。
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5月28日、米山さん一行は中国東方航空に乗って上海に飛んできました。斬新な建物と最新の設備が整う一流の上海浦東国際空港は、海外からやってきた各国の友に中国の風貌を示す巨大な窓口のようです。
空港の出口で、米山さんは興奮の余り、頬を少し赤らめながら言いました。「とっても驚いたわ!中国の変化は本当にすごいですね。最初見たとき、自分の目を信じられないくらいでしたよ!」と。感動でいっぱいの米山さんがそこにはいました。
東京に長く暮らし、毎日地下鉄に何度も潜りこまなければならない日本人の友達は、今市内に向かう広々とした高速道路を走るタクシーに乗って、まるで中国人がよく言うセリフ――「解放了!」(解放した!)というように感じたことでしょうね。
スケジュールに従い、その日の夜、私達は上海雑技団を見にいきました。難度の高い究極の雑技アクションは、その独特な形で世界各国の観衆の心を強く引き寄せていました。
ちなみに僕が子供のころは、よく父に連れられて雑技を見にきたものでした。当時は、まだ県レベルの雑技団しか見られなかったので、いつも綱渡りや一輪車、飛人とかの演目しかなく、何度か見てしまうと、いつも同じだなという感じしかしませんでした。
でも今の雑技団は本当に、幾度となく雑技を見てきた僕にとっても、それが一つの芸術だということ、また「精益求精」(さらに倦まず弛まず向上すること)の意味をよく理解させてくれるものでした。
特に「空中彩盤」と「千手観音」は絶妙です。米山さんらが大喜びしたことは言うまでもありませんが、雑技の常連客の僕までが、芸術家の方々の見事な演技に、ただただ魅せられてしまいました。
翌日、僕らは休むことなく「人間天国」と呼ばれた杭州へと急いで向かいました。最近ではスピードも速くなった列車は、日本の新幹線のように「風馳電掣」(とても速い!)というほどではありませんが、そこそこスピードが出るようになり、しかも外の景色を楽しむこともでき、車内もきれいで席も居心地がいいので、日本の皆さんはとても満足そうでした。
あまりの心地よさに、可愛らしい緑川さんは小声で日本の歌を歌いはじめたのです。すると周りの乗客は彼女に熱烈な拍手を送るではありませんか!
僕は、周りから投げられる目線から、人々が僕の「艶遇」(美しい女性に出会うこと)をうらやましく勘違いされていることを感じ取り、思わず顔が赤くなってしまいました。
僕に恥ずかしく思わせたことはそれだけではなく、響いてくる呼び売りの声が、新型の列車ととても不釣合いで、しかも薄汚れた服を着ている呼び子の姿も、僕に不快を感じさせました。
僕はそれらのことを恥ずかしいと思っていましたが、逆に米山さんらは、それにまるで不快感を抱いていないようでした。
さらに、興味津々にいろんな食べ物を買い込んで、彼女らが苦手な向日葵の種の食べ方すら、僕から教わろうとしたのです。
五月の江南は、山紫水明で、そのうえ杭州の風景はさらに美しさの極みです。真に人間世界にある仙境です。僕が憧れている民族英雄の岳飛は、美しい西子湖の傍に永眠しています。
僕は米山さんらを連れて、まず岳廟を見に行きました。そこで、僕は彼女たちに《満江紅》(岳飛の物語)を教えたので、彼女達はとても敬虔に岳飛のお墓参りをしたのです。こうして三人の僕のお客さんは、思う存分中国の大自然を味わっていました。
でも、一つ処をまだ全部見終わらないうちに、時間の観念が強い三姉妹は、残念ながらやはり割愛せざるを得なくなり、次の蘇州や南京の旅へと立つことにしました。
しかし彼女達は中国の自然風景にすっかり惹かれてしまったようです。お別れの時も、米山さんはこっそり僕に耳打ちしました。「来年のゴールデンウィーク、私また中国にくるよ!」と――。